神山 清子。 神山清子の作品や価格を徹底調査!現在購入する方法が!|朝ドラマイスター

スカーレットのロケ地は大阪と滋賀のどこ?ヒロインのモデル・神山清子の工房の場所は?

神山 清子

略歴 [編集 ] にに生まれ 、終戦後にに移住し、小学3年時に信楽に転居する。 小学校時代から絵を描くことが好きで、和洋裁学校を卒業後に陶器の絵付け助手を始めて 、1954年、陶器製造会社に「絵付け工」として就職する。 27歳で独立し作陶を始める。 30歳の頃、知人に勧められ公募展に出品すると入選し、当時まだ珍しかった女性陶芸家として、神山の名は全国に知れ渡った。 神山が作陶を始めたころは女性が窯場に入ると「」と言われ、窯焚きをする女性はいなかったが、神山の存在は後進の女性陶芸家に勇気を与えた。 30代半ばの時に自宅付近にあった古代の窯跡で青に深い緑色が溶け込んだ「自然釉」の古信楽を発見したことをきっかけに、「こんな色の焼き物を作りたい」としてその再現に没頭。 自宅兼工房の敷地内に古代穴窯と同様の穴窯「寸越窯(ずんごえがま)」を築いて作品作りに挑むものの穴窯が何度も崩れるなど試行錯誤を繰り返し、借金を重ねつつ作陶を続けて、挑戦開始から3年を経て 途絶えていた古信楽の再現に成功し、自然釉薬を使った陶芸の第一人者となる。 私生活では結婚、離婚を経て2人の子どもを育て、長男で同じく陶芸家を志した神山賢一が29歳でを発症すると神山はドナー探しに奔走し、賢一はによって一時は快方に向かったが、2年後に死去。 この経験からの必要性を訴える活動を始め 、現在は「滋賀骨髄献血の和を広げる会」の代表を務めている。 2019年、神山の半生を綴った伝記的小説『緋色のマドンナ 陶芸家・神山清子物語』がより出版される。 2019年9月30日から2020年3月28日まで、神山の半生を参考にして作られるNHK『』が放送された。 神山はヒロイン「川原喜美子」のモデルではないが、神山を深く取材し、神山の子育てをしながら作陶する姿を大きく参考にしている。 劇中では喜美子の陶芸作品として神山から借りた作品が用いられた。 著作 [編集 ] 雑誌 [編集 ]• 神山 清子「 」 『幼児の教育』第75巻第12号、日本幼稚園協会、1976年12月1日、 40-41頁、 、 、。 神山 清子、りん たいこ「問答有用 41 骨髄バンク立ち上げの立役者 陶芸家 神山清子「息子と陶芸に、生きる力をもらいました」」『』第83巻第8号、、2005年2月8日、 42-45頁、 、 、 、 :。 神山 清子「インタビュー 朝ドラ『スカーレット』の原点。 作陶に命を燃やす女性陶芸家の素顔 信楽の火と土が、ここまで私を生かしてくれた」『』第104巻第21号、、2019年11月12日、 48-52頁、 、 :。 関連書籍 [編集 ]• 、岸川悦子『母さん子守歌うたって - 寸越窯・いのちの記録』(2002年9月、、 978-4-89317-294-5)• 『緋色のマドンナ 陶芸家・神山清子物語』(2019年9月、、 978-4-591-16361-0) メディア出演 [編集 ]• 「親子の心 焼き物にこめて〜滋賀県甲賀市信楽町〜」(、2006年〈平成18年〉11月25日)• 「となりの人間国宝さん 信楽ぶらり 女性陶芸家と息子が遺した器」(、2019年〈令和元年〉12月2日)• 「朝ドラで注目の滋賀・信楽へ!陶芸の里で素敵な器と美味探し」(、2020年〈令和2年〉1月25日) 脚注 [編集 ] []• 『読売年鑑』、2016年、2016年版、479頁。 日本陶磁協会 2005年1月. 2020年1月26日閲覧。 2020年1月26日閲覧。 京都新聞社. 2016年4月4日. 2020年1月26日閲覧。 2019年11月27日. 2020年1月26日閲覧。 インタビュアー:築山栄太郎. の2020-04-29時点におけるアーカイブ。 2020年4月29日閲覧。 の2018年12月4日時点におけるアーカイブ。 2020年1月26日閲覧。 2006年11月25日放送. 2020年1月26日閲覧。 日本骨髄バンク. 2020年1月26日閲覧。 2019年9月29日. インタビュアー:. ニュース. 2020年2月27日閲覧。 2019年9月30日. インタビュアー:. ニュース. 2020年2月27日閲覧。 時事ドットコム. 2018年12月3日. の2018年12月4日時点におけるアーカイブ。 2020年1月26日閲覧。 Lmaga. 2018年12月4日. 2020年1月26日閲覧。 2020年2月29日. 2020年3月9日閲覧。 2020年1月26日閲覧。 2020年1月25日放送. 2020年1月26日閲覧。 外部リンク [編集 ]• - 信楽町観光協会による神山の陶房の紹介•

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神山清子とは

神山 清子

茶道で使われる水指しが縁側にずらりと並んでいました。 そして20代後半で会社を辞め、自宅を工房にして独立しました。 一番初めに作ったのは狸です。 誰にも教わらずできるだろうと思ってやってみたら全然できなかったんです。 狸の大きなお腹が重たくて、みんな倒れてしまう。 そこで狸の型抜きをしていた方たちに教わってようやくできるようになりました。 また庭の灯篭や花生けなどの注文をいただく度に新しいことを勉強していきました。 海外から美術本を取り寄せ、アートについても勉強しました。 当時の信楽焼は火鉢や植木鉢などをつくる職人仕事でしたから、アートの世界からインスピレーションを受けて作品を作ることは珍しかったと思います。 緋色とは炎の色です。 炎の中にはいろいろな色があり、窯の火の入れ方によって、黒みが出たり、明るいオレンジ色のような色が出たりする。 私はこの細かな変化を記録し、40年間蓄積してきました。 だから同じ色は出なくても、この作品はこういう色や景色を表現したいと予測すると、近い色が出ます。 陶芸は科学なんです。 そしてこの色を出せるのは、信楽の土だからこそ。 粘土層の中に含まれる養分が、焼き上げると化学反応を起こし、緋色のような土味としてにじみ出てくる。 信楽の土じゃないと、この色は出せません。 私が信楽で作品づくりを続ける意味がそこにあります。 日本六古窯のひとつである信楽には長い歴史と伝統があります。 しかし無尽蔵といわれた信楽の土は少なくなり、窯の燃料となる松の木も日本から姿を消しつつあります。 そんな時代だからこそ私は伝統を残し、信楽焼ならではの「土」と「焼き」にこだわって、信楽焼の中に新しい姿を見せたい。 滋賀を越え、日本全国そして世界の展覧会へ出展しているのもその想いがあるからです。 これからも私は人々の心の中にいつまでも残る信楽自然釉を焚き続けたいと思います。 あらかじめご了承ください。

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信楽焼の陶芸家 神山 清子さんを訪ねて

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今回の朝ドラは滋賀県信楽を舞台に、男社会である陶芸の世界を自らの手で道を切り開いていく女性陶芸家の物語。 物語の主人公 川原喜美子さんというキャラクターのヒントになったと言われているのが神山清子(こうやまきよこ)さんです。 焼き物の里「信楽」で大量生産を可能にした「登り窯」や効率的な電気釜ではなく「穴窯」と言われる古来の窯を築き、釉薬(うわぐすり)を使わずに光沢ある陶器を焼く古来の製法「自然釉」を信楽焼きに復活させた方で、今も現役で作品を作られています。 今回、神山さんにインタビューする機会をいただきました。 信楽焼きとは まずは信楽焼きとはどんな陶器なのかを見てみましょう。 信楽焼きは日本六古窯(常滑、瀬戸、越前、備前、丹波、信楽)のひとつです。 (日本六古窯は鎌倉時代以前に陶器産地として始まり、現代まで続いている代表的な6つの窯の総称。 )信楽焼きは今から約750年前の13世紀半ばに始まったと考えられています。 信楽という土地が焼き物で栄えた要因としては、焼き物づくりに適した陶土が採れたこと、焼き物を焼く燃料となる薪や山の傾斜地が多くあったこと、焼き物を必要とする人々が住む都市に近かったことなどが挙げられます。 信楽焼きの特徴は陶土の粘度が高く火に強い為、"大物"(火鉢、壺など)が多いこと、土に含まれる鉄分が焼く時酸化することで、素地が赤褐色に発色し、火のように美しいことから緋色と言われています。 現在の信楽焼きは釉薬を用いていますが、中世から受け継がれてきた信楽焼きは釉薬を施さず、窯で数日間にわたって高温で焼き、素地を固く焼き締める「焼締陶器」でした。 焼締陶器の魅力は、小石混じりのざっくりとした肌合い、焼きの過程で素地が変化し作り出される印象深い「景色」にあります。 その後、侘茶(わびちゃ)の流行とともに、素朴で温かみのある信楽焼は茶道具として愛されるようになり、明治~昭和にかけて信楽焼きは火鉢で栄えましたが、金属製品の台頭によって火鉢需要が激減し、植木鉢や花瓶などに注力するようになりました。 現在では工業用タイル(建物の壁などに使われる)が信楽焼き生産の50%以上を占めています。 日本全国の火鉢の80%以上を信楽で作っていた時代もあったそうです。 (明治~昭和30年代頃) 町の中心にある信楽伝統産業会館の壁のタイルも信楽焼きが使用されています。 今でも"たぬき"は信楽のトレードマークとして町のあちこちで見られます。 神山清子さんの略歴 1936年 長崎県佐世保市で金場 繁の長女として誕生。 (神山は夫の姓)。 父は炭鉱の現場監督で情に厚い人だったが、酒と博打が好きで金使いが荒くいつも借金に追われていた。 清子は子どもの頃から母に替わって家事や家計をやっていた。 1944年 父は、労働に耐えられず炭鉱を脱走した朝鮮人を手助けした為、警察から目をつけられ、一家ともども佐世保を離れ、滋賀県日野市に流れてきた。 1947年 滋賀県日野から信楽へ移る。 (清子小学3年生)。 学力優秀、スポーツも万能だった清子は級長にも選ばれていた。 負けん気が強く、いじめられても泣き寝入りせず相手の親のところに文句を言いに行ったり、校長室にかけこんで対策を訴えたりしていた。 なりたい職業は婦人警官で柔道も習っていた。 中学生の時、絵の才能を教師に認められて絵を学び始め、県の絵画コンクールで金賞を取った。 町は奨学金を出すからと美大への進学を勧めたが、父は「女には勉強は必要ない。 裁縫と料理ができたらええ」と有無を言わさず和裁・洋裁学校へ入れられた。 1954年 信楽の「近江化学陶器」に"絵付け工"として入社。 1957年 結婚(清子21歳) 1961年 長男賢一生まれる。 1963年 「近江化学陶器」から独立し、本格的な陶芸の世界に入る。 1970年 信楽古来の穴窯(寸越窯)を自宅に築く。 1984年 離婚(清子38歳)。 賢一が古代の窯跡で陶器の破片を見つけてきた。 深い緑色の光沢を持つその破片は釉薬を使っていなかった。 「これこそが私の作りたかった本物の信楽焼き、自然釉や」ここから清子は自然釉の研究に没頭していく。 1990年 賢一が慢性骨髄性白血病発症(その後急性へ転化)。 当時なかった「骨髄バンク」の設立運動を起こす。 1991年 骨髄バンク設立 1992年 賢一が31歳で死去(清子56歳) 2004年 映画「火火(ひび)」が制作された 神山清子さん単独インタビュー 清子さんのお父さんはどんな人でしたか? 普段はおとなしいけど、酒を飲むと気が大きくなり、家族に暴力を振るうこともあった。 お金が手に入ると大盤振る舞いしたくなる性格で、宴会に全然知らない人が紛れこんでいたりして・・・そんで支払いは全部父にツケられていたので借金は膨れ上がっていった。 (つい最近まで信楽はツケ(売掛け)が当たり前でお金を持っていなくても買い物や飲み食いが出来た。 ) 子どもの頃、絵が上手と評判だったそうですね 似顔絵を書いてくれと頼まれることがようあった。 書いたげるお礼に鉛筆や消しゴムをもらえるからな、書いてあげてん(笑) 絵付け工として働くも給料が安かったので家計を助ける為に本業以外でも働いていたそうですね。 どんなことをしていたのですか? 庭に花を植えて、咲いたのを売りに歩いたり、茄子やじゃがいも等野菜を育てて自転車で売りに行ったりしてたな。 ご自宅に築いた穴窯に「寸越窯(ずんごえがま)」と名づけられましたが、その由来は? 寸越(ずんごえ)は土地の名前なんです。 寸越窯は何度も作り直されています。 傾斜地を利用して作る登り窯(遺跡)と穴窯とでは形態が大きく異なります。 一度に大量の焼き物を焼くことができる登り窯は当時画期的だった。 信楽焼きは3~4日で焼くのが一般的だそうですが、16日間火を焚き続けてやっと自分の理想とする作品が出来たと伺いました。 16日間も火を焚き続けたのはなぜですか? 昔の信楽焼きの色と風合い(自然釉)を出す為にそれはもう失敗ばっかりやった。 そのたくさんの失敗の中で長い時間火を焚けば思ったのが焼けるんやないかという気持ち(仮説)はあった。 半ばやけっぱちになって焚いたんやけどな(笑) 陶芸は「土」と「焼き」、これなんや。 長く焚き続けることで良い物が焼けることがわかってから、周りの人に「長く焚いたらええよ」と薦めたんよ。 でも実際にやった人は少なかった。 神山さんが思う信楽焼きの魅力とは何でしょうか? (信楽の) 土がいいんです。 土に粘りがあって火に負けない。 そしてこれほどいろんな色が出せるのは他の焼き物ではないんと違うかな。 信楽焼きは日本一、いや世界一やと私は思うてる。 でも自然釉焼成に必要な純粋な土は今は無くなっているとの事。 長時間焼成は困難になっており、松の木は枯れ始めた。 電気、ガス、石油窯になり、信楽の火色は、新しい信楽焼きの火色へと変化し、形も変え、これからの信楽焼きはどこへ向かうのでしょうか。。。 取材後の感想 陶芸という完璧な男社会の中で、数々の困難や障壁に負けず、自分の力で道を切り開いてきた神山清子さん。 今回2時間以上に及ぶ長いインタビューにお応えいただき、いろいろなお話を伺いましたが、それでも口には出せない辛いこと、悲しいこと、苦しいことがたくさんあったことだろうと思います。 当時のムラ社会では「女のくせに生意気な」とか「協調性がない」などと仲間外れにされたこともあったようです。 しかし神山さんは人からどう思われようと、自分の思うこと、言いたいことをはっきり言う芯の強い方でした。 (インタビューにお応えいただく口調は穏やかでしたが) 自分を信じて、失敗しても失敗しても諦めず、自分の理想とする陶芸の姿を求めて愚直に「土」と「火」に、そして自分自身に向き合ってきた神山さん。 ひとつのことに没頭(集中)する力はすごいと思います。 神山さんのお宅に上げていただき、作品が飾ってあるお部屋に入った時、その作品から発せられる"力強さ"に圧倒されました。 神山さんの作品は"お寺の人"に人気があるそうです。 仏教の世界観と響きあう部分があるのかもしれません。 神山さんが実名で登場する映画「火火」(2004年公開)の中でこう言うシーンがあります。 (神山清子さんを演じるのは田中裕子さん) 「(作品を作る時) カッコつけて形ばっかり気にしてるうちはあかん。 自分を捨てきれてこそ自分が出せるんや。 見栄とかプライドとかに惑わされてるようではいかん。 映画「火火(ひび)」TSUTAYAサイトは 神山さんはインタビュー時、こうも仰いました。 「有名になるいうのも考えもんや。 有名になったら近寄ってくる人がようけ出てくる。 足引っ張ったろういう人、うまい話持ってきて自分だけ儲けようとする人「スポンサー付けてもっと大きくやりましょう」とか。 そんなんロクなことない。 私は今回話題になったからゆうて商売とか個展とかやる気はない。 」 私がやりたいんは「本当に焼き物が好きな人に伝えていきたい」いうことや。 神山清子さんが今も闘い続けている仕事場です。

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