あさ ぎー にょ 年齢。 あさぎーにょひなたの性別と関係は?ハーフの噂はホントだった!?

ベテラン音楽系ライターがソニーの新人オーディションへ潜入!新時代のアーティストが決まる瞬間をレポート

あさ ぎー にょ 年齢

女と 俳諧 ( はいかい )、この二つは何の関係も無いもののように、今までは考えられておりました。 しかし古くから日本に伝わっている文学の中で、 是 ( これ )ほど自由にまたさまざまの女性を、観察し描写し且つ同情したものは他にありません。 女を問題とせぬ物語というものは昔も今も、捜して見出すほどしか無いといわれておりますが、それはみな一流の 佳人 ( かじん )と才子、または少なくとも選抜せられた或る男女の仲らいを 叙 ( の )べたものでありました。 これに反して俳諧は、なんでもない 只 ( ただ )の人、極度に平凡に活きている 家刀自 ( いえとじ )、もっと進んでは 乞食 ( こじき )、 盗人 ( ぬすっと )の妻までを、俳諧であるが故に考えてみようとしているのであります。 歴史には 尼将軍 ( あましょうぐん )、 淀 ( よど )の 方 ( かた )という類の婦人が、 稀々 ( まれまれ )には出て働いておりまして、国の幸福がこれによって左右せられたこともありますが、こういう人たちをわが仲間のうちと考えて、歴史に興味を抱くようになった女性の、少なかったのはまことに 已 ( や )むを得ません。 振 ( ふ )り 回 ( かえ )って後姿を眺めようとするような心持が、女と歴史とのすれちがいには起こらなかったのであります。 有りとあらゆる前代の人の身の上は、小説の中にすらも皆は伝わっておりません。 それを俳諧だけが残りなく、見渡し 採 ( と )り上げて 咏歎 ( えいたん )しようとしていたのであります。 女は通例自分たちの事を 噂 ( うわさ )せられるのを、知らずに過ぎるということはないものですが、奇妙に俳諧だけは冷淡視していました。 その原因は御承知のごとく、俳諧というものが 連歌 ( れんが )の法式を受け継いで、初めの 表 ( おもて )の六句ではなるべく女性を問題とせず、特に恋愛は取扱わぬことにしていまして、そうして今日俳諧として鑑賞せられているのが、そのまた第一の句だけであったからであります。 店先にはまじめくさった年輩の男たちばかり 出入 ( でいり )しているのを見て、これは女などには用の無いところと、奥には何があるのかを 覗 ( のぞ )いて見ようともせずに、素通りした人の多かったのも無理はありませんが、実はその 暖簾 ( のれん )の陰にこそ、 紅紫 ( こうし )とりどりの女の歴史が、画かれてあったのであります。 歴史にこの無数無名の二千年間の母や姉妹が、黙って参与していたことを信ずる者は、これを説くためにも俳諧を引用しなければなりません。 そうして私がこの意外なる知識を掲げて、人を新たなる好奇心へ誘いこむ計略も、白状をすればまた俳諧からこれを学びました。 『七部集』は三十何年来の私の愛読書であります。 これを道案内に頼んでこの時代の俳諧の、近頃活字になったものも追々に読んでみました。 その折々の心覚えを書き留めておいたのを、近頃取出して並べて見ますと、大部分は女性の問題であったことが、自分にも興味を感じられます。 それで二三の関係ある文章を取添えて、一冊の本にすることにしたのであります。 大抵は人に語りまたは何かの集まりに話をしたものの 手控 ( てびか )えのままなので、聴手の種類や年齢に応じて、表現の形が少しずつかわり、文章も大分不揃いであります。 それがこの書を「女性読本」と題しなかった一つの理由であります。 或いは男のくせにという批判を、誰かから受けそうな気もしますが、実は私には女の子が四人あり、孫も四人あって四人とも女です。 彼らとともに、またはその立場から、次の時代を考えてみなければならぬ必要が、前にもあり今もしばしばあるのであります。 是 ( これ )がもしも一身一家にしか用の無い問題であるならば、そういう研究は学問ということができぬのですが、幸いなことには私たちの境遇は、かなり多くの同時代人を代表しているらしいのであります。 此方 ( こちら )で望ましいことが 彼方 ( あちら )では害になり、一方のためには 智慧 ( ちえ )であり啓発であっても、他の一方では疑い 惑 ( まど )う人々を、誤りに導くかも知れぬというような 懸念 ( けねん )は、お互いの足元を比べ合わせてみれば、まず少しも無いと信じられるのであります。 こういう経験こそは 頒 ( わか )たなければなりません。 それ故に私たちは、自分自分の疑惑から出発する研究を、 些 ( すこ )しも手前勝手とは考えておらぬのみか、むしろ手前には何の用も無いことを、人だけに説いて聴かせようとする職業を軽蔑しているのであります。 現在の日本に自国の学問が無ければならぬということを、私などはこういう風に解しております。 俳諧に残っているのは小さな人生かも知れませんが、とにかく今までは顧みられないものでありました。 事は過去に属しつつも、依然として新しい知識であります。 そうしてまた現在の疑惑の 種子 ( たね )であります。 是からの日本に 活 ( い )きて行こうとする人々に、おふるでないものをさし上げたいと、私だけは思っているのであります。 分 ( ぶん )にならるる 娵 ( よめ )の 仕合 ( しあわせ ) 利牛 ( りぎゅう ) はんなりと 細工 ( さいく )に染まる 紅 ( べに )うこん 桃隣 ( とうりん ) 鑓持ちばかり戻る 夕月 ( ゆうづき ) 野坡 ( やば ) まことに艶麗な 句柄 ( くがら )である。 近いうちに分家をするはずの二番 息子 ( むすこ )の 処 ( ところ )へ、 初々 ( ういうい )しい花嫁さんが来た。 紅をぼかしたうこん染めの、 袷 ( あわせ )か何かをきょうは着ているというので、もう日数も 経 ( た )っているらしいから、これは 不断着 ( ふだんぎ )の新しい木綿着物であろう。 次の 附句 ( つけく )は 是 ( これ )を例の 俳諧 ( はいかい )に変化させて、晴れた或る日の 入日 ( いりひ )の頃に、月も出ていて空がまだ赤く、向こうから来る 鑓 ( やり )と鑓持ちとが、その空を背景にくっきりと浮き出したような場面を描いて、「細工に染まる紅うこん」を受けてみたのである。 またこれとは正に反対に、同じ恋の句でも寂しい扱い方をしたものが、『 比佐古 ( ひさご )』の 亀 ( かめ )の甲の章にはある。 薄曇 ( うすぐも )る日はどんみりと 霜 ( しも )をれて 乙州 ( おとくに ) 鉢 ( はち )いひ 習 ( なら )ふ声の出かぬる 珍碩 ( ちんせき ) 染めてうき 木綿袷 ( もめんあわせ )のねずみ色 里東 ( りとう ) 撰 ( よ )りあまされて寒き 明 ( あけ )ぼの 探志 ( たんし ) この 一聯 ( いちれん )の前の二句は、初心の 新発意 ( しんぼち )が冬の日に町に出て 托鉢 ( たくはつ )をするのに、まだ 馴 ( な )れないので「はち/\」の声が思い切って出ない。 何か 仔細 ( しさい )の有りそうな、もとは良家の青年らしく、 折角 ( せっかく )染めた木綿の 初袷 ( はつあわせ )を、色もあろうに 鼠色 ( ねずみいろ )に染めたと、若い 身空 ( みそら )で仏門に入ったあじきなさを 歎 ( たん )じていると、 後 ( あと )の附句ではすぐにこれをあの時代の、 歌比丘尼 ( うたびくに )の身すぎの哀れさに引移したのである。 木綿が 我邦 ( わがくに )に行われ始めてから、もう大分の年月を 経 ( へ )ているのだが、それでもまだ 芭蕉 ( ばしょう )翁の元禄の初めには、江戸の人までが木綿といえば、すぐにこのような優雅な境涯を、 聯想 ( れんそう )する習わしであったのである。 木綿が我々の生活に与えた影響が、毛糸のスエーターやその一つ前のいわゆるメリンスなどよりも、 遥 ( はる )かに偉大なものであったことはよく想像することができる。 現代はもう衣類の変化が無限であって、とくに一つの品目に拘泥する必要もなく、次から次へ好みを移して行くのが普通であるが、単純なる昔の日本人は、木綿を用いぬとすれば 麻布 ( あさぬの )より他に、肌につけるものは持ち合わせていなかったのである。 木綿の若い人たちに好ましかった点は、新たに流行して来たものというほかに、なお少なくとも二つはあった。 第一には肌ざわり、野山に働く男女にとっては、絹は 物遠 ( ものどお )く且つあまりにも滑らかでややつめたい。 柔かさと摩擦の快さは、むしろ木綿の方が 優 ( まさ )っていた。 第二には色々の染めが容易なこと、是は今までは絹階級の特典かと思っていたのに、木綿も我々の好み次第に、どんな派手な色模様にでも染まった。 そうしていよいよ 棉種 ( わただね )の第二回の輸入が、十分に普及の効を奏したとなると、作業はかえって麻よりも遥かに簡単で、 僅 ( わず )かの変更をもってこれを家々の 手機 ( てばた )で織り出すことができた。 そのために政府が欲すると否とに 頓着 ( とんちゃく )なく、 伊勢 ( いせ )でも 大和 ( やまと )・ 河内 ( かわち )でも、瀬戸内海の沿岸でも、広々とした平地が棉田になり、棉の実の桃が吹く頃には、急に月夜が美しくなったような気がした。 麻糸に関係ある二千年来の色々の家具が不用になって、 後 ( のち )にはその名前までが忘れられ、そうして村里には 染屋 ( そめや )が増加し、家々には 縞帳 ( しまちょう )と名づけて、競うて珍しい 縞柄 ( しまがら )の見本を集め、 機 ( はた )に携わる人たちの趣味と技芸とが、僅かな間に著しく進んで来たのだが、しかもその縞木綿の発達する以前に、無地を色々に染めて 悦 ( よろこ )んで着た時代が、こうしてやや久しくつづいていたらしいのである。 色ばかりかこれを着る人の姿も、全体に著しく変ったことと思われる。 木綿の衣服が作り出す女たちの輪廓は、絹とも麻ともまたちがった特徴があった。 そのうえに袷の 重 ( かさ )ね 着 ( ぎ )が追々と無くなって、中綿がたっぷりと入れられるようになれば、また 別様 ( べつよう )の肩腰の丸味ができてくる。 全体に伸び縮みが自由になり、身のこなしが以前よりは明らかに外に現われた。 ただ夏ばかりは 単衣 ( ひとえ )の 糊 ( のり )を強くし、或いは 打盤 ( うちばん )で打りならして、僅かに昔の麻の着物の心持ちを 遺 ( のこ )していたのだが、それもこの頃は次第におろそかになって行くようである。 我々の保守主義などは、いわば 只 ( ただ )五七十年前の趣味の模倣にすぎなかった。 そんな事をしている間に、以前の麻のすぐな突張った外線はことごとく消えてなくなり、いわゆる 撫 ( な )で肩と 柳腰 ( やなぎごし )とが、今では至って普通のものになってしまったのである。 それよりも更に隠れた変動が、我々の内側にも起こっている。 すなわち軽くふくよかなる衣料の快い圧迫は、常人の 肌膚 ( はだ )を多感にした。 胸毛や背の毛の発育を不必要ならしめ、身と衣類との親しみを大きくした。 すなわち我々には 裸形 ( らぎょう )の不安が強くなった。 一方には今まで眼で見るだけのものと思っていた紅や緑や紫が、天然から近よって来て各人の身に属するものとなった。 心の動きはすぐに形にあらわれて、歌うても泣いても人は昔より一段と美しくなった。 つまりは木綿の採用によって、生活の味わいが知らず知らずの間に 濃 ( こまや )かになって来たことは、かつて 荒栲 ( あらたえ )を着ていた我々にも、毛皮を 被 ( かぶ )っていた西洋の人たちにも、一様であったのである。 ただし日本では今一つ、同じ変化を助け促した 瀬戸物 ( せともの )というものの力があった。 白木 ( しらき )の 椀 ( わん )はひずみゆがみ、使い初めた日からもう汚れていて、水で 滌 ( すす )ぐのも気休めにすぎなかった。 小家の 侘 ( わび )しい物の 香 ( か )も、源を 辿 ( たど )ればこの木の 御器 ( ごき )のなげきであった。 その中へ米ならば二 合 ( ごう )か三合ほどの 価 ( あたい )をもって、白くして静かなる光ある物が入って来た。 前には宗教の領分に属していた真実の円相を、茶碗というものによって朝夕手の 裡 ( うち )に取って見ることができたのである。 是 ( これ )が平民の文化に貢献せずして 止 ( や )む道理はない。 昔の貴人公子が 佩玉 ( はいぎょく )の 音 ( ね )を楽んだように、かちりと前歯に当る陶器の 幽 ( かす )かな響には、鶴や若松を画いた美しい 塗盃 ( ぬりさかずき )の 歓 ( よろこ )びも、忘れしめるものがあった。 それが貧しい 煤 ( すす )けた家の奥までも、ほとんと何の代償も無しに、容易に配給せられる新たな幸福となったのも時勢であって、この点においては木綿のために麻布を 見棄 ( みす )てたよりも、もっと無条件な利益を我々は得ている。 しかも是が 何人 ( なんぴと )の恩恵でもなかったが故に、我々はもうその嬉しさを記憶していない。 偶然とは言いながらも是ほど 確乎 ( かっこ )たる基礎のある今日の新文明を、或いは 提督 ( ていとく )ペルリが 提 ( ひっさ )げてでも来たもののように、考える人さえあったのである。 木綿の威力の抵抗し 難 ( がた )かったことは、或る意味においては 薩摩芋 ( さつまいも )の恩沢とよく似ている。 この 藷 ( いも )なかりせば国内の食物は 夙 ( つと )に尽きて、今のごとく人口の 充 ( み )ち 溢 ( あふ )れる前に、外へ出て生活のたつきを求めずにはいられなかったろう。 必要な農民を勇敢にし、海で死に或いは海で栄える者が、今よりも遥かに多かったはずである。 しかし藷が来た以上は作って食い、食えば一旦は満腹して是でも住めると思い、貧の辛抱がしやすくなって、結局子孫の 艱難 ( かんなん )を長引かせたとも見られるが、さればとて遠い未来の全体の幸不幸を勘定して、この目前に甘く且つ柔かなる食物の誘惑を 却 ( しりぞ )けることは、人が神であってもできないことである。 木綿の幸福には、是ほど大きな割引は無かったが、仮に有ったとしてもなお我々は 悦 ( よろこ )んでこれに 就 ( つ )いたであろう。 それがまた個々別々の生存をもつ者の、至って自然なる選択である。 久しい年月を隔てて後に、或いは忍び難い悪結果を見いだしたとしても、これに 由 ( よ )って祖先の軽慮は責めることはできぬ。 ただ彼らの経験によって学び得る一事は、かように色々の偶然に支配せらるる人間世界では、進歩の 途 ( みち )が常に善に向かっているものと、安心してはおられぬということである。 万人の 滔々 ( とうとう )として 赴 ( おもむ )く所、何物も 遮 ( さえぎ )り得ぬような力強い流行でも、木が成長し水が流れて下るように、すらすらと現われた国の変化でも、静かに考えてみると損もあり得もある。 その損を気づかぬ故に後悔せず、悔いても 詮 ( せん )がないからそっとしておくと、その 糸筋 ( いとすじ )の長い 端 ( はし )は、すなわち目前の現実であって、やっぱり我々の身に 纏 ( まつ )わって来る。 どうしても 独 ( ひと )りの力では始末のできぬように、この世の中はなっているのである。 茶碗や 皿 ( さら ) 小鉢 ( こばち )が暗い台所に光を与え、清潔が白色であることを教えた功労は大きいが、それでも一方には、物の容易に砕けることを学ばしめた難は有る。 木綿の罪責に至っては或いはそれよりもいささか重かった。 第一に彼はこの世の塵を多くしている。 おかしいことには木綿以前の日本人が、何かと言うと人世の塵の苦しみを訴え、 遁 ( のが )れて嬉しいという多くの歌を残しているのと反対に、そんな 泣言 ( なきごと )はもう流行しなくなってから、かえって 怖 ( おそ )ろしく塵が我々を攻め出した。 震災がこの大都をバラックにした以前から、形ばかりの大通りは 只 ( ただ )吹き通しの用を勤めるのみで、これを 薬研 ( やげん )にして 轍 ( わだち )が土と馬糞とを粉に砕く。 外の 埃 ( ほこり )はこれのみでも十分であるのに、家の中ではさらに綿密に、 隙間 ( すきま )隙間を木綿の塵が占領し、掃き出せばやがてよその友だちと一緒に戻ってくる。 雨水が洗い流して海川へ送ると言っても、日々積るものの幾分の一にすぎぬであろう。 いかに 馴 ( な )れてしまっても是が身や心を 累 ( わずら )わさぬはずはない。 越前の西ノ谷は男たちは遠くの鉱山に 往 ( い )ってしまい、女は 徒然 ( つれづれ )のあまりに若い同士 誘 ( さそ )い合って、大阪の紡績工場に出て働く習いであったが、もう十年も昔に自分が通って見た頃は、ほとんと三戸に一人ぐらい、 蒼 ( あお )ざめた娘が帰って来てぶらぶらしていた。 塵は直接に害をせぬまでも、肺を弱らせて病気に 罹 ( かか )りやすくさせることは疑いが無い。 しかも山村から工場へというように、変化が急なればこそ心づくが、こうして只いては五百年千年の昔から、この世は今の通りに埃だらけであったものと考えて、 辛抱 ( しんぼう )する者も多いことであろう。 毛布やモスリンの新しい塵が加わっても、やはり昔通りに 畳 ( たたみ )を敷きつめて、その上で綿や 襤褸 ( ぼろ )ぎれをばたばたとさせている。 しかし埃はもう今になんとか処分せずにはおられぬことになると思う。 それよりも一層始末の悪いことは、熱の放散の 障碍 ( しょうがい )である。 是は必ずしももう 馴 ( な )れてしまったとも言われぬのは、近い頃までも夏だけはなお麻を用い、木綿といっても多くは 太物 ( ふともの )であり、 織目 ( おりめ )も手織で締まらなかったから、まだ外気との交通が容易であったが、これから後はどうなって行くであろうか。 汗は元来乾いて涼しさを与えるために、出るようなしくみになっているものに相違ない。 湿気の多い島国の暑中は、裸でいてすらも蒸発はむつかしいのに、目の細かい 綾織 ( あやおり )などでぴたりと体を包み、水分を含ませておく風習などを、どうして我々が 真似 ( まね )る気になったのであろうか。 これから南の方へ追々と出て行くと、いずれの島でも日本のような夏で、乾いた北欧の大陸に成長した人々は、大抵は閉口して働けなくなる。 その間にあって我々ばかり、以前ならばどうにか 活溌 ( かっぱつ )な生活を続け得たものだが、今のようなあいの子の服装が癖になってしまっては、 折角 ( せっかく )永い年月ゆかしがっていた 常夏 ( とこなつ )の国へ行きながら、 常 ( とこ )しえの夏まけをしなければならぬ結果を見るかも知らぬ。 政府大臣が推奨する質実剛健の気風とかは、いかなる修養をもって得らるるものか知らぬが、もしそれが条件なしに、木綿以前の日本人の生活に立ち 還 ( かえ )ることを意味するならば、その説は少なくともこの久しい歴史を忘れている。 東京の町などでは三十年余り前に、裸体はもとよりはだしまでも禁制した。 しかもその当座は 草鞋 ( わらじ )がなお用いられて、禁令は単に 踏抜 ( ふみぬ )きを予防するにすぎなかったが、もう今日ではことごとくゴム靴だ。 そうでなければゴム底の 足袋 ( たび )をはいている。 足袋は全国に数十の工場が立って、年に何千万足を作って売っている。 にえかえる水田の中に 膝頭 ( ひざがしら )まで入って、田の草を取る足がだんだんに減少する。 たまたま犬の 一枚革 ( いちまいがわ )を背に引かけて車を 輓 ( ひ )き、或いは 越後 ( えちご )からくる薬売の娘のごとく、 腰裳 ( こしも )を高くかかげて 都大路 ( みやこおおじ )を 闊歩 ( かっぽ )する者があっても、是を前後左右から打眺めて、讃歎する者の無いかぎりは、 畢竟 ( ひっきょう )は過ぎ去った世の珍しい 名残 ( なごり )というに 止 ( とど )まっている。 次の時代の幸福なる新風潮のためには、やはり国民の心理に基づいて、別に新しい考え方をして見ねばならぬ。 もっと我々に相応した生活の仕方が、まだ発見せられずに残っているように、思っている者は私たちばかりであろうか。 [#改ページ] 公家 ( くげ )・武家の生活はしばしば政治の表面に 顕 ( あら )われ、歴史として後世に伝わっていることが多いが、それでもまだ幾つもの想像し難い部分がある。 多数無名の我々の先祖の、当時としては最も有りふれた毎日の慣習が、ゆかしいとは思ってもほとんとその一端をも知ることができないのは誠に致し方がない。 そういう中でも衣と住とは、偶然に絵巻画本の 隅 ( すみ )に写生かと思うようなものが見えるが、筆つきが簡素であるために材料までは確かめることがむつかしく、ただまず形の著しく今日と異なっていることに驚くのみである。 百年は必ずしも長い月日ではないが、文化文政の頃の風俗画などの 町風 ( まちふう )を見ても、もう今日との著しい違いが見られる。 まして職人 尽 ( づく )しの 歌合 ( うたあわせ )などの絵になると、よくも 是 ( これ )だけ変った外形の中に、古今を一貫した考え方や物の見方を、保ちつづけたものだと感ぜずにはおられない。 物を心で支配する力が、もとは今日よりも強かったのであるか。 ただしはまた前代の選択、もしくは自然に供与せられたものが、 測 ( はか )らずも特に幸いなものであったのか。 それを明らかにするためには形や製式よりも、どうかして資料の変化を知らなければならぬと思っている。 住居は食物と同じに古くから資料は同一で、変化したのはただその利用法だけのように考えられているが、 是 ( これ )とてもその取合わせは随分とちがうらしい。 殊に衣服の方では我々の眼前でも、次々に物が新しくなっているのである。 十代十五代前の我々の同胞が、何を着て働きまたは休息していたかということは、まだわからぬというのみで、今あるものでなかったことは 何人 ( なんぴと )も疑っていない。 是を果して知る 途 ( みち )がまったく無いかどうか。 そういうことを自分は考えている。 勿論 ( もちろん )直接に是を書いて伝えようとしたものは少ない。 しかし日本は地方の事情は 区々 ( まちまち )で、或る土地で 夙 ( つと )に改めてしまったものを、まだ他の土地では 暫 ( しばら )く残していたという例が幸いにして多い。 それを集めてぽつぽつと整理してみたら、いわゆる改良の順序はやや明らかになり、それをまた 幽 ( かす )かに伝わっている上世の記録と比較し照し合わせて、やや確かめることができはしないだろうか。 こういった方法を少しずつ 勧説 ( かんせつ )してみたいと私は思っている。 是は衣料がこの頃のように、短い期間で変って行く場合にはできない仕事だが、幸いなことには前代の変遷は遅々としており、国人にもまた親々の 仕来 ( しきた )りを、守ろうという念がずっと強かった。 そのためにいわゆる開けない世の姿が、なお 片端 ( かたはし )には残っていた。 それが今ちょうど消え尽そうとしているのである。 衣服の 嗜好 ( しこう )はこの二三十年の間に、我々の目前においても著しく変った。 普通人の生活で言えば、手織物と称する 不細工 ( ぶさいく )でしかも丈夫な織物は、都会ではほとんと影を 斂 ( おさ )めて、いわゆる紡績の糸で織ったつやのある木綿ばかりが、 田舎 ( いなか )へまでも行き渡っている。 是は国内の各地方に棉の栽培が衰えたために、 糸紡 ( いとつむ )ぎや 綿繰 ( わたく )りが、もう尋常農家の手業でなくなった結果である。 しかもこのもめん綿というものそれ自身、我邦における歴史は短いのである。 千年の昔、 崑崙 ( こんろん )人の船が 三河 ( みかわ )の海岸に漂着した時に、その船の中には棉の種子があったということが、歴史の上には見えているけれども、その時の棉はまだ広く全国には普及しなかったようで、実際に各地で栽培が始まったのは三百年、南蛮との交通よりも早いとは考えられない。 そうしてこの頃すでに日本の人口は二千万近くもあったらしいのである。 その中の一少部分は資力があった、 真綿 ( まわた )を入れた絹の 小袖 ( こそで )も着たことであろうが、この絹もまた古くから我邦にあったとはいいながら、その生産高は今日の輸出時代に 比 ( くら )べると知れたもので、多分は百分の一にも届かなかったと思う。 現に江戸初期の長崎貿易は、主として 支那 ( シナ )からの絹糸の買入れを目あてとしていたくらいで、かの 土井大炊頭 ( どいおおいのかみ )の 糸屑 ( いとくず )の逸話が、 読本 ( よみほん )にも 載 ( の )っていて女たちもよく知っている。 その上にまた絹のいずれの点から見ても、決して働く人々の着物の 料 ( りょう )とするには適しなかったのである。 然 ( しか )らば多くの日本人は何を着たかといえば、 勿論 ( もちろん )主たる材料は麻であった。 麻は明治の初年までは、それでもまだ広く 栽 ( う )えられていた。 その 作付反別 ( さくづけたんべつ )が追々と縮小の一途を 辿 ( たど )っていたことを、世人は木綿ほどに注意していなかったのである。 都会の住民は夏も木綿の単衣を着て、年中まったく麻を用いない者が増加するのであるが、それでも地方には未だ相応にこれを着ていたのだったということが、気をつけているとやや 判 ( わか )ってくる。 先頃 ( さきごろ )熊本県の九州製紙会社を見に行ったときに、私は紙の原料の供給地を尋ね試みたことがある。 藁 ( わら )だけは勿論この附近の農村一帯から集めてくるが、 古襤褸 ( ふるぼろ )の多量は大阪を経由し、殊に 古麻布 ( ふるあさぬの )を主として東北の寒い地方から、 仰 ( あお )いでいるというのが意外であった。 奥羽でこれほどまで麻布の消費があろうとは思っていなかったのであるが、だんだん聴いてみるとこの方面では、一般に冬でも麻の着物を着ていたのである。 寒国には木綿は作れないから、一方には多量の 木綿古着 ( もめんふるぎ )を関西から輸入して、 不断着 ( ふだんぎ )にも用いているが、冬はかえってその上へ麻の半てんを 引掛 ( ひっか )ける 風 ( ふう )があるということを、私は九州に行って学んだのである。 麻布は 肌着 ( はだぎ )に冷たく当って、防寒の用には適せぬように思われるが、細かい雪の降る土地では、水気の 浸 ( し )みやすい木綿を着るのはなお不便だから、いわば我々の雨外套のかわりに、麻布を着て雪を払っているのであった。 けれども近頃は次第にその麻布が少なくなり、したがって得にくくまた高くなったということである。 そのかわりに木綿布の 古切 ( ふるぎ )れを何枚も合わせて、それを 雑巾 ( ぞうきん )よりも細かく堅く刺して、麻布のかわりに 上覆 ( うわおお )いに着ていると見えて、私も 羽後 ( うご )の 由利 ( ゆり )郡の山村をあるいた時に、小学校の生徒がみなこの木綿のアツシを着ているのを見たことがある。 もとはこの上着の原料が、着古した麻布を刺したものであったのであろう。 我々は麻布といえば 一反 ( いったん )二十円もするような 上布 ( じょうふ )のことをしか思い浮かべないが、 貢物 ( みつぎもの )や商品になったのはそういう上布であっても、東北などの冬の 不断着 ( ふだんぎ )は始めから、そのような 華奢 ( きゃしゃ )なものではなかった。 精巧な少量のものは専ら売るために織り、めいめいの着ているのは太い重い、 蚊帳 ( かや )だの畳の 縁 ( へり )だのに使うのと近い、至って 頑丈 ( がんじょう )なもので、 是 ( これ )が普通にいうヌノであった。 木綿は織ったものもモメン、糸も 此方 ( こちら )はカナと 謂 ( い )って、是をイトとは謂わなかった。 つまり麻だけが普通の布でありまた糸であったのである。 かの『万葉』の、 あさ 衣 ( ごろも )きればなつかし 紀 ( き )の 国 ( くに )の 妹 ( いも )せの山に麻まく 吾妹 ( わぎも ) という歌なども、旅の空にいる人がこの布を着るにつけて、故郷の山里で麻を作っている家の者を 想 ( おも )い出したという感動が 咏歎 ( えいたん )せられたもので、一方には麻の工作が一般に、 播種 ( はしゅ )の時からすでに女の労働であったことを意味するとともに、麻衣という所から推測してまだこの以外に、別に何らかの衣服原料が存在していたということを、この一首の歌からも考えさせられるのである。 かつて 土佐 ( とさ )から 阿波 ( あわ )への山村を旅行していた際に、私はこの地方で 麁麻布 ( あらあさぬの )の着用が東国よりも遥かに盛んであることに注意して、人にこの茶色に染めた布を何と謂うかを尋ねてみたが、一般に今は是をタフというようであった。 肥後 ( ひご )の 五箇庄 ( ごかのしょう )と並んで、山中の隠れ里として有名であった 阿波 ( あわ )の 祖谷山 ( いややま )などは、小民の家はみな竹の 簀 ( す )の 子 ( こ )で、あの頃はまだ夏冬を通して、このタフを着て住んでいるという話であった。 タフは「太布」と書く人もあるが、実は今日まだ正確に 宛 ( あ )つべき漢字が知られていない。 だが自分だけはおそらく 栲衾 ( たくぶすま )の栲であろうと思っている。 タクは昔の言葉では麻でない別の衣料であった。 植物の皮の繊維から作ることは麻と同じでも、栲は他の一つの木の種類であったと思う。 弘化 ( こうか )年間に出来た『 駿河 ( するが )国 新風土記 ( しんふどき )』には、府中すなわち今の静岡市の物産の中に栲布というものがあって、是は「 安倍 ( あべ )山中にて織出し、 楮 ( こうぞ )の皮を 以 ( もっ )て糸として織るものなり、又 藤 ( ふじ )を以て織るものもあり」と書いてある。 右の栲布が果してタクと 訓 ( よ )んだか、または 爰 ( ここ )でもタフと謂っていたかは確かでないが、少なくとも木綿および麻の以外に、繊維をもって衣服を織る例が、この頃この辺にもあったことだけは是で明らかである。 藤蔓 ( ふじづる )の皮で布を織って常服とすることは、山村一般の生活技術であった。 その二三の例を挙げるならば、同じ駿河国の 志太 ( しだ )郡東川根村大字梅地あたりでは、藤布を織って木綿古着の上に着るということが、『駿河 志料 ( しりょう )』にも見えている。 その外 安倍川 ( あべかわ )や 藁科川 ( わらしながわ )の上流の村々では、一般にこの藤布が用いられていた。 また 大和 ( やまと )の 十津川 ( とつがわ )でも、麻を作ることが困難で、藤で織ったあらあらしい布を着ていたと、吉田 桃樹 ( とうじゅ )の天明八年の紀行、『 槃遊余録 ( はんゆうよろく )』には見えている。 山口県の 玖珂 ( くが )郡秋中村大字 秋掛 ( あきがけ )などでも、「藤を打砕いて糸の如く 紡 ( つむ )ぎ布に織り、 股引 ( ももひき )等に 相用 ( あいもち )ゐ 候事 ( そうろうこと )」と、『 周防風土記 ( すおうふどき )』には記している。 また『 伯耆志 ( ほうきし )』には 西伯 ( さいはく )郡 東長田 ( ひがしながた )村その他の山村の産物に、藤布というのを掲げている。 文化四年に成った『北遊記』には、今の福島県の 平 ( たいら )と湯本との中間でも、藤布を織って産業にしている者がいたとある。 是は衣服の原料としてではなく、おもに畳の 縁 ( へり )にするために供給していたものであった。 春中の女の仕事で、その製法は藤の皮を 剥 ( は )ぎ、水に浸すこと四五日の後、 堅木 ( かたぎ )の灰を加えて 暫 ( しばら )く煮て、川に出して 晒 ( さら )し且つ 扱 ( こ )くことは、麻の通りであるとも述べてある。 フヂは元来 葛類 ( かずらるい )全体の総称であって、必ずしも紫の花を垂れて咲く藤一種には限っていなかった。 人も知るごとく河内の葛井寺はフヂヰデラと読んでいる。 昔の藤布の中には紫の藤でなく、たとえば貴人の 喪服 ( もふく )にも用いられたという 藤衣 ( ふじごろも )などは、或いはまた別種の葛の繊維をもって織ったものだったかも知れない。 『北越雑記』を見ると、 北蒲原 ( きたかんばら )郡の 加地庄 ( かじのしょう )の辺で藤布というのはすべてクズ、すなわち秋になって 深紅 ( しんく )の花を開く 葛 ( くず )の皮で製したもので、主として 袴 ( はかま )かみしもなどの用に製して販売していた。 蹴鞠 ( けまり )の遊びの時にはく袴は必ずこの 葛布 ( くずふ )の袴で、その供給地として昔から有名だったのは、遠州の 掛川 ( かけがわ )地方であった。 今でもから 紙 ( かみ )、 障子 ( しょうじ )や 屏風 ( びょうぶ )の装飾には、是を使ったものが幾らも見られるけれども、衣服の材料としては次第に用いなくなって来たのである。 自分は植物の事には至って 疎 ( うと )いが、シナという木の皮でもまた布を作ることがあるのを知っている。 シナは東北では普通にマダの木と 謂 ( い )い、是で織った粗布をマダヌノと呼んでいる。 『 蝦夷 ( えぞ )産業図説』には、アイヌがオヒョウまたはアツという木の皮で、アツトシというものを作って着るのは、奥州の民家でこのシナの木の皮を採ってシナタフを織り、農業その他の力わざをするときに着用するのと同じく、彼はすなわちこの 風 ( ふう )を伝えたものだろうと謂っている。 信州の山村で穀物を入れる袋に、葛布のような太く 麁 ( あら )い布を織って、 棕櫚 ( しゅろ )のような赤黒い色をした袋を製して用いているのは、原料はこのシナの木の皮であり、他国には例の無いことだと、『 舳艫訓 ( じくろくん )』という書に記したのはまだ心もとないが、米を入れる袋は他の土地でもシナ袋と謂う者があり、名の起こりはその材料にする木の名からで、『 延喜式 ( えんぎしき )』の貢物中に名の見える 信濃布 ( しなのぬの )なども、やはりこの布であったろうという同書の説は傾聴する値がある。 「 」とも「級」とも漢字には書いているが、シナは要するにこの樹皮が 強靱 ( きょうじん )で且つしなやかであるがための名で、信濃という国名もまた是に基づいているという説も古くからあった。 その信州ではもはや是を衣服には供しなかったようにいうが、近年まで 木曾 ( きそ )の福島に問屋があって、盛んに関西地方に送り出していたタフなるものも、たとえ今日ではいわゆる木曾の麻衣だけに限られているとしても、少なくとも名の起こりはかつてそれ以外の植物繊維を織ったものがあったためで、是もまた袋や 風呂敷 ( ふろしき )類ばかりに限られていなかった時代があることを、推測せしむるに足るかと思う。 現に同じ地方でイラというものの糸を、衣服の材料に供していたことが、文化年間に出た『信濃奇勝録』には述べられている。 イラは「いぬからむし」、「蕁麻」とも書いて、山野に野生する植物であった。 この頃人のよく言うラミーとは同属である。 秋の彼岸の後に刈り取って、麻と同じように皮を 剥 ( は )ぎ糸に引くので、木曾では 秋分 ( しゅうぶん )前には山の神の 祟 ( たたり )があるからと謂って採りに行かなかった。 同じ草が木曾の山村のみならず、信州の北隅 越後境 ( えちござかい )の、非常な山奥の秋山という村でも、もとはやはり唯一の衣料であった。 秋山ではイラというかわりにオロと謂っていて、主として 袖 ( そで )なし半てんのようなものをこのオロで 拵 ( こしら )え、冬は古着の上に、夏は裸にもこれを着たということである。 『 北越雪譜 ( ほくえつせっぷ )』の秋山の条を見ると、この山村には夜具を持っている家はただの二軒であった。 その夜具というのもオロをもって織った布で、綿にもオロの 屑 ( くず )を入れ、しかも客人にばかり出して着せる。 家の人々は 藁 ( わら )の 叺 ( かます )の中に入って 炉 ( ろ )の 傍 ( かたわら )に寝るのだと謂って、ちゃんとその様子が絵にかいて載せてある。 あらたへの藤江の浦にいさりする 海人 ( あま )とか見らん旅行く我を という古い歌があるのを見れば、上古の言葉で「和布」「麁布」と書いたニギタヘ・アラタヘの麁布も、フヂで作ったものだったということが 判 ( わか )る。 或いはまた「 栲衾 ( たくぶすま ) 新羅 ( しらぎ )の国」などとも謂って、白いという 枕詞 ( まくらことば )にこのタクの 衾 ( ふすま )を用いていたのを見ると、是はおそらくは染めずに着たもので、今日謂うところの 生麻 ( きあさ )などと同じく、繊維の性質がもと染物とするには適しなかったものと思われる。 或いはまた「神代巻」の 須勢理姫命 ( すせりひめのみこと )の御歌にも、「むしぶすま 柔 ( にこ )やが下に、たくぶすまさやぐが下に」ともあって、ムシの衾が肌に柔かに当る寝具であるに対して、このタクの衾の方はがさがさとした、今で言えば 糊 ( のり )のこわい木綿夜具、またはさらに以上のものであったらしい。 しかしこれと比べて柔かいなと言われたムシブスマとても、 蕁麻 ( いらくさ )で製したとすれば相応にこわ張ったものであった。 それよりももう一層粗いというのだから、いかに上古の 上 ( じょうろう )の生活が、柔弱ということの反対であったかもわかる。 是でこそ我々の遠祖の 肌膚 ( はだ )が丈夫で、 風邪 ( かぜ )などいうものを知らなかった原因も突き止められるのである。 昔の人が寒暑につけて、天然に対する抵抗力の強かったことは、とうてい 今人 ( こんじん )の想像の及ばぬところであるから、 素肌 ( すはだ )に麻を着て厳冬を過したとしても不思議はないが、これ以外に多分は獣皮なども取り添えられたことと思う。 また麻衣や藤衣を何枚も重ねて着たでもあろう。 いわゆる 布子 ( ぬのこ )としては信州秋山の例のように、これらの繊維の 屑 ( くず )を綿のようにほごして中に入れたろうと思うことは、今でも麻の屑をヲグソと謂って、それに使っているのからも想像せられる。 秋田県などでユブシマすなわち 夜衾 ( よぶすま )というものが稀にまだ残っているが、是には表を藤布として、中の綿を麻の屑にしたものがあった。 或いは 支那 ( シナ )で 閔子騫 ( びんしけん )が、 継母 ( ままはは )に憎まれて着せられたというような、 葦 ( あし )の 穂綿 ( ほわた )なども使われていたろうかと思うが、少なくとも木綿の綿はまるで無く、 筑紫綿 ( つくしわた )とも言わるる絹の 真綿 ( まわた )は、 常人 ( じょうじん )の家では企て望み難いものであった。 藤葛または「いぬからむし」などのほかに、なお衣服の原料であったかと思われるのは 楮 ( こうぞ )である。 『阿波志』にタフの原料として 穀 ( かじ )の皮を用いたというカヂも、今のヒメカウゾか、そうでなくともこの属の一種であったろうと思う。 是は我々の最も注意すべき点で、阿波という国は関東地方に向かって、穀の木の普及を 図 ( はか )りたまうと伝えられる 天日鷲命 ( あめのひわしのみこと )の本国であって、現に千葉県の安房もその阿波の古代植民地であったが故に、国の名を同じうするのであろうという説があり、また『 古語拾遺 ( こごしゅうい )』によれば、その天日鷲命が東国経営の際に、穀の木を 栽 ( う )えられた地方が今の 下総 ( しもうさ )の 結城 ( ゆうき )であったとも言われている。 結城のユフは一種麻以外の繊維料で、それは穀のことだということが古く認められていたのである。 楮はカゾともまたカミソとも謂う地方があって、現在は紙の原料としてのみ知られているが、以前は少なくてもその一種に、是を糸に紡いで布に織り用いたものがあったのである。 ユフの使用は今日は神祭に限られ、それも代品ばかりで何が本当のユフだとも知れぬようになっているが、我々の祖先の思想としては、神に供えるのは各人常用の必要品の中でも優等なものを選ばなければならぬのであったから、すなわちまたユフと 訓 ( よ )まれた昔の木綿が、今のモメンの木綿と同様に、衣服の資料であったこともほぼ明らかなのである。 楮は今日でも 林木 ( りんぼく )と 畠作物 ( はたさくもつ )との中間の、いわば半栽培品の状態にあるが、以前も 苑地 ( えんち )に 栽 ( う )えるまでの必要はなくても、やはり自由に採取のできるほど山野に充満してはいなかったために、その生産地は多少これを注意し且つ保護していたらしく思われる。 下総の結城を筆頭にして、ユフの産地を意味する地名は、国の東西に分布している。 たとえば大分県の別府温泉の西に 聳 ( そび )え立った 由布岳 ( ゆふだけ )は、『 豊後風土記 ( ぶんごふどき )』の逸文にも、ユフの採取地である故にこの名が付いたと記している。 今日の村の名または 大字 ( おおあざ )の名に、 湯本 ( ゆもと )・ 由 ( ゆ )ノ 木 ( き )等の非常に多いのも、以前はユフの採取地として保護していた山野が、後に麻の畠作が進むとともに不用になり、開いて普通の村落田園としたことを意味するので、近くは 武蔵 ( むさし )の一国だけにも、自分はその十数カ所を列挙することができる。 しかも是が東北の方へ行くほど少なくなるのは、やはりまた気候の制限があって、 夙 ( はや )くからフヂやマダやイラ草の類を、是に代用した結果ではないかと考える。 小山田与清 ( おやまだともきよ )は近代の博学であるが、その著『 松屋筆記 ( まつのやひっき )』の中には、武蔵 南多摩 ( みなみたま )郡の 由木 ( ゆぎ )村の地名を解釈して、 弓削 ( ゆげ )氏の植民地であったかと謂っているのは、なお西国の山村に 柚木 ( ゆのき )・ 油谷 ( ゆや )・柚園等の地名が無数に有ることを気づかなかった誤りである。 柚園の園はもとは屋敷附属の 圃場 ( ほじょう )のことだが、九州南部ではソンまたはソと謂って、単なる独立の 山畠 ( やまはた )をもそう呼んでいる。 とにかくに是だけは自然のものを採取するのでなく、土地を 拓 ( ひら )いて特に穀の木を栽培していた例である。 『 千載集 ( せんざいしゅう )』の 神祇部 ( じんぎぶ )に、 久寿 ( きゅうじゅ )二年の 大嘗会 ( だいじょうえ )の風俗歌に、 悠紀方 ( ゆきがた )として詠進した歌は、 近江 ( おうみ )の 木綿園 ( ゆふぞの )を地名として詠じている。 是などもまたこの時代以前に、あの地方にもユフを園に作っていた生活があったことを示すもので、麻が唯一の平民衣料となったのは、中央部においてもそう古くからのことではないのである。 [#改ページ] この話題はそれ自身がいかにも昔風だ。 平凡に話そうとすれば幾らでも平凡に話される題目である。 聴かぬ前から 欠伸 ( あくび )をしてもいいお話である。 人間に嫁だの 姑 ( しゅうと )だのというものの無かった時代から、または 御隠居 ( ごいんきょ )・ 若旦那 ( わかだんな )などという国語の発生しなかった頃から、既に二つの生活趣味は両々相対立し、互いに相手を許さなかったのである。 先年日本に来られた英国のセイス老教授から自分は聴いた。 かつて 埃及 ( エジプト )の古跡発掘において、中期王朝の一書役の手録が出てきた。 今からざっと四千年前とかのものである。 その一節を訳してみると、こんな意味のことが書いてあった。 曰 ( いわ )くこの頃の若い者は才智にまかせて、 軽佻 ( けいちょう )の風を 悦 ( よろこ )び、古人の質実剛健なる流儀を、ないがしろにするのは 歎 ( なげ )かわしいことだ云々と、 是 ( これ )と全然同じ事を四千年後の先輩もまだ言っているのである。 日本などにも 世道澆季 ( せどうぎょうき )を説く人は昔からあった。 正法末世 ( しょうぼうまっせ )という歎きの声は、数百年間の文芸に繰返されている。 『 徒然草 ( つれづれぐさ )』の著者の見た京都は、すでに荒々しく下品な退化であった。 『古今集』の序文にも「今の世の中、色につき、人の心花になりにけるより云々」と書いてある。 『 古語拾遺 ( こごしゅうい )』の著者などはそれよりまたずっと昔において、既に平安京初期の文化を悪評しているのである。 老人が静かに追憶の中に老い去ろうとする際に、殊に周囲の社会生活の変化が目につくというだけのことで、彼らの知っている昔は、取り返すことのできぬ大切なものである故にさらに美しく思われ、たった一つしか無いものである故に一段と貴重に考えられるということは同情してよいが、変らなかった世の中というものはかつて無く、新と旧とは常に対立して比較せられるのである。 故に今頃またそんな例を陳列して見たところが、おかしくもないことは知れている。 私は忙しい人間だから頼まれてもそういう話はしない。 我々が 爰 ( ここ )で語り 且 ( か )つ考えてみようとするのは、当世にいわゆる生活改善、すなわち生活方法の計画ある変更に、はたしてどのくらいまで新し味があり、またこの時代の 尚古 ( しょうこ )趣味、ないしはあらゆる改革に対して不安を抱こうとする階級の批判に 拮抗 ( きっこう )して、はたしてどの程度にまで現代日本の文化を価値づけることができるかという問題である。 是は確かに今日のような集会において、皆さまのような団体の考えてみてもよい題目であり、また新聞に 携 ( たずさ )わっている私らのような者の口から、一度はとくと聴いておかれてもよい話であると思う。 いつの世においても、新たに起こった風習に対する反動派の批評は、大体において二種類に 別 ( わか )つことができるようである。 その一つは自分らが名づけて 三省録型 ( さんせいろくがた )と 謂 ( い )おうとするもの、すなわち江戸期に最も有力であった節倹という社会道徳律に基づいたものである。 現在もまだこれを承認する者はなかなか多いが、しかもその尺度はいつの間にか非常に違っている。 例えば絹布使用の禁制のごときは、かつては罪として罰せられた時代もあった。 それはまだよいとして、米の消費の制限のごときさえ、或る場合には法令をもって強制したことがあったが、それは 最早 ( もはや )みな昔の歴史であって、今日はこれを 甘 ( あま )なう者がようやく少なくなった。 すなわち知らぬ間にこの規制は、新旧の妥協をもって改訂しているのである。 第二は一言にして申せば審美学的ともいうべきもの、すなわち趣味の低下を慨歎する観察であって、むしろ前者とは正反対の側に立とうとするものである。 この両面からの攻撃はかなり痛くまた強いものであるが、しかも今日の生活改善論者のごときは、かえって勇敢且つ積極的に、右二種の武器を逆に利用して、昔風の必ず変更せざるべからざる理由を主張しようとするのである。 これいわゆる 追風 ( おいて )に 帆 ( ほ )を 懸 ( か )け、流を下るにモーターを使うがごときもので、是ではもはや相手方に口をきかせる余地もなく、その功を収むるの 易々 ( いい )たるは当然のように思われる。 趣味からいっても今の方がいい。 経済から見ても 此方 ( こちら )が有利とすれば、この上に昔風論者の反対する根拠は無いわけだからである。 ところで実際の成績はどうかというと、それが必ずしも理論通りではないのであった。 諸種の考案は競い進み、甲乙流行の変化ばかりが 烈 ( はげ )しく、都市生活は是がために最も乱雑となった。 例えば衣服一つだけについて見ても、汽車や電車の 乗合 ( のりあい )、その他若干の人の集りに行けば、髪から 履物 ( はきもの )から帯から 上衣 ( うわぎ )まで、ほとんと目録を作ることも不可能なる種類がある。 勿論 ( もちろん )是も面白い世の中といえば言える。 いわゆる二重三重生活は我々の単調なる存在から、退屈という 畏 ( おそ )ろしい悪魔を追い 攘 ( はら )う効力はある。 しかしながら少なくともこの無定見は、同朋多数の国民を平和静穏の世界に導いて行く道ではない。 全体において今日の生活改善運動は、その志の概して 真面目 ( まじめ )なるにかかわらず、単に物ずきだ、勝手気ままの空想だという、冷酷なる批評を外部から受けている。 是はどういうわけであるか。 この批評がはたして不当不親切なものであるか否か。 まずもって 爰 ( ここ )にはそれを判決するだけの資格のある者が入用なので、そうして私は深く本日の聴衆に期待するのである。 今もし世のいわゆる有識階級、すなわち智徳の若干に加うるに、新たな考案方法を試みるだけの機会なり資力なりをもってした人々が、自分たちの生活を標準として何か目新しい衣食住の 模様替 ( もようが )えを工夫し、それが他の一万人中の九千九百人に、適用し得るかどうかを測量することを 怠 ( おこた )っていたとしたら 如何 ( いかが )であろうか。 仮に朝晩口に任せて、 逢 ( あ )う人ごとに同じ 能書 ( のうが )きを繰返してまわったとしても、結局それは時代の変遷とは何の交渉も無しに終るかも知れぬ。 それというのが一番 肝要 ( かんよう )な一点において、流通性を欠いているからである。 支那 ( シナ )の歴史の中で、 東晋 ( とうしん )の 恵帝 ( けいてい )は古今独歩の 闇君 ( あんくん )と認められているが、或る年天下大いに飢え、万民 穀 ( こく ) 乏 ( とぼ )しと 侍臣 ( じしん )が奏上した時に、そうか米が無いか、そんならシチュウでも食うことにすればよいのに(何ぞ 肉糜 ( にくび )を 食 ( くら )はざる)と 謂 ( い )ったそうである。 がいずれの時代にも、失礼ながら婦人には常に少しずつ、右申す晋の恵帝流があった様子である。 善人ではあるが世の中のことは考えないという人がある。 元 ( もと )はそれでもよかった。 それでも良い奥さんであった。 また外からもこれを当り前と認めていた。 しかし今日のごとく、男子の多くがまだ 公 ( おおやけ )を 患 ( うれ )うるの余裕なく、純然たる個人生活に没頭して生きねばならぬという世の中になると、我々はどうしても天下万人のためにも、 弘 ( ひろ )く考え得る良妻賢母を要求せねばならなくなる。 最近数十年間の新しい改良意見には、いかにも女性でなくてはと思うようなやさしい考案も多かった。 しかもその大部分は狭いわが家庭内の苦い経験、或いは痛切な観察に基づいている故に、一言にして言えば貧乏人には役に立たなかった。 それでいて我々がまずどうにかせねばならぬのは、少数 篤志 ( とくし )の家の愉快よりも、他の大変な多数の者の幸福ということである。 西洋でもかつて慈善心に富んだ奥方といった者は、二頭立ての馬車に乗って一週に一度ぐらい、小銀貨を配ってあるいた人のことであったが、日本の旧式節約にもそんな例が多かった。 たとえば廃物利用といって古葉書を編んで 夏座蒲団 ( なつざぶとん )を作り、女中を 渋屋 ( しぶや )に 遣 ( つか )わして渋を塗らせる。 しかもそのために 費 ( ついや )した自分たちの労力は無代と評価してあるから安いのである。 内職に生活している 裏店 ( うらだな )の女房などにこれを教えようとしたら、「馬鹿にしているよ」の一言をもって拒絶せられること 受合 ( うけあい )のものである。 もうそんな生活改善もあるまいとは思うが、稀にはまだややこれに近い 松下禅尼 ( まつしたぜんに )式、ないしは 青砥藤綱 ( あおとふじつな )式ともいうべき心掛が賞讃せられるために、道は行われず、社会改良には信用が無く、細心柔情の人がこの世に 充 ( み )ちておりながら、国はなおいつまでも悩まなければならぬのである。 わかりきったことだが、道を行わんとすればまず大いに学問をせねばならぬ。 未来のために画策しようとする者は、殊に今までの経過を考えてみる必要があるのである。 我々が女性を 煩 ( わずら )わして、学び且つ考えてもらわねばならぬことは、時とともにますます多くなって来ている。 男たちはつい近い頃まで、 僅 ( わず )かな同部落の者のみを友とし、多数の異部落と闘わなければならなかった。 いわゆる「人を見たら泥棒」と思わなければならなかった。 彼らの同情なるものは、よほどの勉強をもってようやく修養し得べき道徳であった。 これに反して女は生まれながらにして多量にこれを持っている。 今より 後 ( のち )は大いにそれを取り出して、独り 郷党 ( きょうとう ) 知己 ( ちき )の間のみならず、弘く世の中のために利用してもらう必要がある。 すでに家と家との目の見えぬ 垣根 ( かきね )は取れた。 里と里とは勿論のこと、国でさえも互いに平和の交際を始めようとしている時節になって、婦人の用意ばかりが以前のままでよろしいという道理は有り得ないのであるが、しからばどういう態度を持っておればよいのか。 今日のお話には主としてその点を説いてみたいと思う。 私などは沢山の娘があるので、幾度となく考えてみたことである。 もし幸いにして彼らに 些 ( すこ )しの天分と、少しの 志 ( こころざし )とがあった場合に、同胞国民のためにいかなる種類の学問をしてくれることが、一番有効でありまた親としての本意であろうかというと、やはり一言でいえば人間の幸福、それをどうして得ようか、また何故に今までは得られなかったか。 この二つの大切なる問題を、読書でなりと観照でなりと、また実験でなりと学ばせてみたいと思う。 と同時に単にこれを各自の家庭の問題として取扱うことを戒めたいと思う。 自分でいうのもおかいしが、我々お互いはもう大分覚醒している。 なるほど現在の生活にはいろんな拘束もあるが、これを振り切って前進することも必ずしも難事ではない。 問題はこの多数の道連れの、歩みののろい人々をどうしようかである。 まさに 落伍 ( らくご )せんとする人々を、いかにして導いて行くかである。 勿論自分自分の幸福は、考えまいとしてもいつの間にか考えている。 ただしそれは学問ではない。 古人も繰返して説いたごとく、学問は必ず人の道でなくてはならぬ。 万人の歩んで行く道でなくてはならぬ。 多くの生活改善論者が相戒めなければならなかったのはこの点であった。 改良服の寸法 裁 ( た )ち方を論ずる前に、古着も 襤褸 ( ぼろ )をささずには着られない生活の多いことを、折畳み式寝台を説く前に、世の中に 藁 ( わら )の中に寝なければならぬ者が、まだ幾らもいるということを考えてかかるべきであった。 人が聞いても藁の中に寝るというな。 蒲団 ( ふとん )をかけて寝ていると言えと堅く子どもに教えておいたところが、「おとうさん、背中に蒲団の 屑 ( くず )がくっついているよ」と 謂 ( い )ったという昔話などは、ちっとも昔の話ではないのであった。 シドニー・ウエッブがかつて日本の小作農生活を見に来たときに、 越後 ( えちご )の或る篤農家は彼を案内して、いわゆる 埴生 ( はにゅう )の小屋の奥に、金色の 阿弥陀様 ( あみださま )の光美しく立つ光景を見せ、また百年勤続の小作人の表彰せられた話などをしてきかせた。 しかし相手がこれを聴いて、百年という声に驚いたのは、是がはたして百年も忍耐し得べき状態であったかということであった。 蒲原 ( かんばら )低地の周辺の村々には、自分の知る限りにおいても 簀 ( す )の 子 ( こ )をかかぬ小家がつい近頃まであった。 村の衛生係員が床の下を清潔にといって 遣 ( や )って来ても、どうしようもない土床の家が方々にあった。 独り東北の一隅でなくとも、また小作農でなくとも、多くの小農の経済はカテ 飯 ( めし )の上に立っている。 節倹は道徳といわんよりもむしろ法則であった。 この人々の生活は、 下肥 ( しもごえ )をきたないという点にまで感覚が進んでは、続けにくい労働でありまた消費でもあったが、これに基づいていわゆる生活の飢餓点は測定せられ、その境目の所に生活を支えしめる限度において、人口は増加したのである。 医術が大分進んで 赤子 ( あかご )が死ななくなったかも知らぬが、永く生きない人が多くなった。 急性の飢餓はなくなった代りに、慢性の凶作は常にあるようになった。 四百四病の一つに 算 ( かぞ )えるのは当然で、貧の病で死ぬ者は実はなかなか多いのである。 全体の生存に対する全体の食料は、どう計算してみても決して豊かでないのに、そのまた分配法が大変によくない。 独り金持が勝手に 奢 ( おご )るのみならず、同じ一軒の家でも亭主が多く食いまた酒に使い、 外 ( ほか )の食物に使う生計費が 権衡 ( けんこう )を失している。 消費の方法も当を得ていない。 家は平均二十年に一度ずつ、焼けて新しいものを要することは、まるで 御遷宮 ( ごせんぐう )の通りである。 腐敗して不用となる養分、無価値にしてから使用するというようなものが幾らあるか知れぬ。 これらの弊害はいずれも国民経済学の問題であるが、男子は多くこれを考究しようとしない。 日本の男子には妙な習癖があって、不景気な考え方だ 引込思案 ( ひっこみじあん )だと言われると、随分 尤 ( もっと )もな意見を持っていてもすぐへこたれ、明らかに無謀な積極政策を提案しても、大抵は威勢がいいの進取的だのと言って誉められる。 全体に日本は消費機関ばかり 無暗 ( むやみ )に発達した国である。 昔から 由良千軒 ( ゆらせんげん )とか 福良 ( ふくら )千軒とか 謂 ( い )って、千軒の人家があれば 友食 ( ともぐ )いで立って行けると言っていたが、そんな道理のあるべきものでない。 故に千軒あったという昔の 湊 ( みなと )などは、今は多くは荒浜の砂の中である。 つまり 小商人 ( こあきんど )の利害から割出される繁栄である故に、正しかろうが誤っておろうが、消費さえ盛んなら好景気と言われたのである。 しかし実際は不必要の消費、少なくて済めば済ませたい消費は、独り酒 煙草 ( たばこ )ばかりではないのである。 ところがそういうむだに近い物に限って、消費を 刺戟 ( しげき )するために文化だの改良だのという文字を 冠 ( かん )している。 人が警戒する方が当り前で、広告が信用の無いのにも理由があるのである。 小売商人のいわゆる近世の改良は、大抵は名ばかりであった。 まがい物や掛け流し物、一時的の体裁模倣の軽薄を極めた商品が、すべて改良の名をもって世に行われている。 この気風と戦うのが実は真の生活改良であった。 すなわち我々が名づけて消費経済学というものと、その基礎をなすべき国民の生活技術誌の研究が、まだまだ親切なる何人かによって、遠く深く進められなければならぬ 所以 ( ゆえん )である。 しかるに世にはこのような一国特有の問題まで、いわゆる先進文明国の学者の著述によって、容易に指導啓発せらるべしと信ずる者がある。 沢山の論拠を並べるまでもなく明瞭にそれは誤りである。 現在の生活改善事業に対する一つの大なる反感は、何だかそれが甚だ西洋臭いことである。 この連中の日本の昔風を攻撃する動機を疑い、多分これが彼らの感心している西洋風と違う故に、 是 ( ぜ )も 非 ( ひ )もなく反対するのだろうという邪推であって、それが随分有力に行き渡っている。 その邪推の当不当は別として、こんな有様ではよし結構な計画でも、到底感化は行われず、恩恵は 弘 ( ひろ )く及ばない。 親切なる 志 ( こころざし )の人々にとっては、 是 ( これ )は誠に引合わぬ且つ馬鹿げた反感には相違ないが、しかも多くの場合には異なる境遇にいる者に対して思い 遣 ( や )りが無く、もしくは彼らを説きつける方法と論拠とが 宜 ( よろ )しきを得ないために、世間からさもさもハイカラ女の物ずき仕事のような、冷評を浴びせられて物別れになるのである。 ところが我々の同胞国民は、その癖随分 真似 ( まね )のすきな人種であった。 人のモダーン振りなどは笑われた義理ではないのである。 今日固守しているところの昔風のごときも、実に遠からぬ昔に 支那 ( シナ )から朝鮮から採用したものが多く、食物を始めとし住宅などにも大なる中世以来の変化がある(ただしこれを輸入し 来 ( きた )った僧侶などには、当世のいわゆる先覚者の持たぬような親切と根気と感化力とはあった)。 また必ずしも外国から模倣したのではなくとも、近代に入ってから変更せられなかった生活方法というものは、探しても見つからぬほどしか残っていない。 よく老人たちが古い仕来りだ改めるわけには行かぬと力んでいるものの中にも、文化文政の百年以後、甚だしきは新たに明治の初年頃から始まったものが幾らもある。 少なくとも古く行われているから保守しなければならぬというものなどは、決してそう沢山には無いのである。 おかしい話は話しきれぬほど色々ある。 例えば皆さん御存じの女の 内足 ( うちあし )の 風 ( ふう )である。 前年日本に遊びにきた某仏国人のごときは、私に向かって 頻 ( しき )りにこれをほめ、あれ一つ見ても日本婦人の優美なる心性が 窺 ( うかが )われるとまで激賞した。 ところが桃山時代の 屏風絵 ( びょうぶえ )、 岩佐又平 ( いわさまたべい )などの写生画は 勿論 ( もちろん )のこと、 西川 ( にしかわ )・ 菱川 ( ひしかわ )の早い頃の作を見ても、女はみな 外足 ( そとあし )でサッサと歩いている。 多分二重に腰巻をして上の方が長く、且つ麻などのようなさらりとした材料を使わなくなった結果、足にからまって 裾 ( すそ )がうまく 捌 ( さば )けなかった故に、こんなあるき方を発明して、それが美女の嬌態と認められることになったのかと思う。 腹式呼吸法を始めた岡田虎次郎さんは、生前久しく私の家へも来て、老人や女たちを集めてよく静坐の講釈をせられた。 その説の一つには、柳田さん、 日本魂 ( やまとだましい )と日本人の坐り方とには、深い関係があると私は思うがどうか。 もし畳というものが無かったら、日本人の勇気気力は今日のごとく修錬せられていなかったろうと考えるがどうかと尋ねられる。 是には誠に柳田なる者も返答に困った。 と申すわけは、我々が今のようなペチャンコの坐りかたを始めたのは、どうも三四百年より古くはないらしいからである。 「すわる」は「ひざまずく」の次の改良であって、 跪 ( ひざまず )くのは身分の低い者が、長者の前に奉仕する礼儀であり、同時に外敵警戒と臨時活動の準備であった。 これがいわゆるサムラフ形である。 サムラヒの階級が一世に充満してこの方法が上下に行き渡り、それが太平に入って平和の閑暇を味わうべく、今日のように 爪立 ( つまだ )てていた足の 尖 ( さき )を伸べて、ヰシキの下に敷くに至って、ついに今一つ以前の坐礼を忘れてしまい、オラクニヰルことをもって欠礼と感ずるようになったのである。 日本魂の方が確かにそれよりも古くからの記憶である。 また 牀 ( ゆか )の上に畳を敷きつめることも、勿論神武天皇以来の風ではない。 たたみは文字通り畳むもの、すなわち今日のゴザまたはザブトンに該当する。 八重 ( やえ )だたみというか高だたみと 謂 ( い )うか、百人一首の「 天神 ( てんじん )さま」の乗っている畳も、古くから有ったことは有ったが、座敷と称してこれを室一杯に敷きつめることは、御殿においてもほんの近世からの出来事である。 現在のようにあの畳の上を 摺 ( す )り 足 ( あし )して、堪えず足の 垢 ( あか )をこすりつけ、その上へ板のごとき 脚 ( あし )なし 膳 ( ぜん )をすえ並べて、なるだけ 塵 ( ちり )の多く載っかった物を食おうとする流行などは、まったく最々近の発明にかかる改良である。 それから座敷の正面の 床 ( とこ )の 間 ( ま )、これなども少しも固有の 風 ( ふう )ではない。 多分は帳台の一変形であろうと私は思っている。 以前の民家の建築においては、帳台すなわち寝床の地位である。 家の者の夜は上がって寝る場所に、今日は 臍 ( へそ )を出した 布袋 ( ほてい )さんなどを安置して 悦 ( よろこ )んでいるのだ。 またその床の間の前へ、迷惑がる客人を押し上げて坐らせる風がこの頃はできたが、以前はそんな辞儀をせずとも、主客の坐位はちゃんときまっていたことは、 囲炉裏 ( いろり )の四方の名称を聞いてもわかる。 是は一つには建築の進歩で、客殿と住居とを一つ 棟 ( むね )の下に作ることのできた結果であり、また一つには 足利 ( あしかが )時代の社会相として、主人が頻繁に臣下の家に客に来ることになって、我家を主人よりももっとえらい人に使わせることになったためでもあって、つまりは坐り方の変遷と関係の深いものであると思っている。 是に限らず、全体に近代の当世風の中には、愚劣なる生活改善が多かった。 それを後生大事に守って、変革を敵視する保守派などは、嘲笑以外の何物にも値しない。 ついこの頃までの世間並、殊に婦人の方面の生活様式のごときは、よくいえば御殿風だろうが、悪くいえば 後宮 ( こうきゅう )式である。 まず運動にも作業にも不便なような趣味ばかりを、上品として模倣したのであって、結局こんな行きがかりを打破するためには、西洋 寝間着 ( ねまき )の 細紐姿 ( ほそひもすがた )でも礼讃したくなるのが 尤 ( もっと )もだといえる。 しかもこれをもって「日本はだめだ」という理由にしようとするのはまた大誤謬である。 歴史に 由 ( よ )って論ずれば、是はつまり我々の近い祖先の、当世風の選択の誤りであった。 軽率無思慮の生活改良の災いと 謂 ( い )ってよいものである。 本来の日本の 些 ( すこ )しでも 与 ( あずか )り知らぬことである。 知ったか振りをしてお聞き苦しいであろうが、少しばかりその実例を述べると、まず第一には我々の衣服である。 羽織 ( はおり )などという引掛かって仕方のないものを 流行 ( はや )らせ、帯などという 大袈裟 ( おおげさ )なものを腰にまとい、奥様が帯をしているのやら帯が奥様をしているのやら、分らぬような 恰好 ( かっこう )をしてあるき、或いは年中作り物のような複雑な頭をして、 笠 ( かさ )も 手拭 ( てぬぐい )もかぶれなくしてしまったのは、 歌麿 ( うたまろ )式か 豊国 ( とよくに )式か、とにかくについこの頃からの世の好みであった。 いわばほんの一時の心得ちがいであった。 深窓の佳人ならばそれもよかろうが、中以下の家庭の女がそんな様子をして生きて行かれるはずがない。 だから女の働く風は、いずれの国でも大体昔から 定 ( き )まって変らなかったのである。 それが芝居を見ると十二 単衣 ( ひとえ )を着て 薙刀 ( なぎなた )を使ってみたり、 花櫛 ( はなぐし )を挿して 道行 ( みちゆ )きをしたり、夏でもぼてぼてとした 襟裾 ( えりすそ )を重ねた 上 ( じょうろう )が出て来るが、それはまったく芝居だからである。 現実の生活は今少しく簡素にして且つ自由なものであった。 この夏の暑い湿気の多い国で、そんな事をして生きて働かれよう道理が無い。 国土の自然と調和すればこそ、永い歳月を経て定まった 衣 ( い )と 裳 ( しょう )との形があることをも考えず、何でも見れば 真似 ( まね )をして、上から上からと色々の余分のものを取り重ね、羽織だコートだ 合羽 ( かっぱ )だ 塵 ( ちり )よけだと、だんだんに包みに包んで今のような複雑きわまる衣裳国にしてしまった。 一度はその反動からでも裸に近い洋服になってみようという運動の、起こるのはまったく止むを得ない。 だから今日の様になって来た心理過程にも、十分の同情を払って見なければならぬが、それよりもなお一つ前に、まずこの国の女性の 本 ( もと )の姿というものを、見いだしておくことが必要である。 そんなことまでも男の人に任せておいてはいけない。 食物の変遷などにも、 省 ( かえり )みられなかった大切な見落しがある。 この方面では殊に色々の新しい材料が入ってくるとともに、多くの昔からの食物が全然我々の食卓の外に消えてしまった。 そうしてその痕跡は必ずしも書物を探さずとも、正月の 喰積 ( くいつみ )や婚礼の 島台 ( しまだい )の上に、まだ 幽 ( かす )かに残っている。 これを見渡して第一に感ずることは、昔に比べると甘味の増加したこと、次には柔かいものの多くなったことである。 昆布 ( こんぶ )は今でも関西地方の嗜好品として行われているが、 生 ( なま )で 榧 ( かや )・ 搗栗 ( かちぐり )を食う人はもうなくなった。 熨鮑 ( のしあわび )のごときは、子供はもう食う物なりや否やをさえ知らぬ。 多くの人は見たことも無いであろう。 これを進物に 副 ( そ )える習慣は、昔は厳重に守られていたが、次第に型ばかりとなってノシは画紙ばかり大きく、その中に幅 一分 ( いちぶ )ばかりの本物をはさみ、或いはそれをも黄色の絵具で画に描いたり、甚だしきはその形を忘れて「いも」と書いたり「のし」と書いたりしているのは、今はもう 熨斗 ( のし )をもらっても食料にする人がなくなって無用の長物だからである。 それほどまでも堅い物を食うことを控えながら、不思議なのは歯の悪い人の年々に増えて行くことである。 多分は食料摂取法の理学的影響、例えば暖かいものの食い方とか、 醗酵 ( はっこう )順序とかいうことに関係があるのであろう。 誰か今に考えてみてくれることになっているのか知らぬが、汽車に乗ったりこういう集会に出てみたりすると、右も左もキンキンと金歯だらけで、人をして黄金国の黄金時代の 眩惑 ( げんわく )を感ぜしめる。 美しくて結構は結構だが、こうまでしないと歯が役に立たぬように、してしまった原因には不審がある。 独り副食物のみではない。 日本人とは切っても切れぬ 因縁 ( いんねん )のある米の飯、是すらも 夙 ( つと )に変化してしまっている。 今我々の食うのは、昔の日本人のいう 飯 ( いひ )ではなく、 粥 ( かゆ )すなわちカタカユというものである。 イヒは 甑 ( こしき )でふかすこと今日の赤飯のごとくであったが、そんな方法をもって飯を製することは 節供 ( せっく )の日ばかりになった。 是もハガマすなわち 鍔 ( つば )のある 釜 ( かま )や、 竈 ( かまど )の作り方の変化と関係のあることは確かで、軍陣その他の労力の供給法にも 由 ( よ )るであろうが、主たる原因は趣味の移動であり、おそらくはまた白く柔かなるものを愛するの情であった。 シャモジなども我々の眼前において、どしどし形を改めて行くのである。 現在では飯をよそうのはシャモジ、汁を 掬 ( く )むものはシャクシと区別するに至ったが、 勿論 ( もちろん )もとは一つである。 杓子顔 ( しゃくしがお )と 謂 ( い )って、人は 花王石鹸 ( かおうせっけん )の広告のごとき顔をそう形容するが、今日の 板杓子 ( いたびゃくし )は平面なるヘラである。 是 ( これ )はまったくメシの 炊法 ( すいほう )の変化に伴なうもので、近頃それが次第に柔かくなった故に、何かこういう鋭利のもので切り取る必要を生じたのだが、これが今少し硬くてもまた柔かくても、とてもこんな杓子では間に合わなかったはずである。 自分などは昔風であるのか、この 舌切雀 ( したきりすずめ )の話を思い出すような米のジャムには感心せぬので、毎度かの有名なる 蜀山人 ( しょくさんじん )の、 三度たく飯さへこはし柔らかし心のまゝにならぬ世の中 の歌を思い出し、全体いつ頃からこんな 不如意 ( ふにょい )が始まったものかと考えてみるのであるが、そのまた三度の食事ということさえ、やはりある時代の当世風であって、本来は朝け夕けの二度を本則とし、日中の食事は田植の日、または改まった力仕事の日に限って、幾返りも供与したばかりであった。 それを自分らごとき朝寝坊までが、必ず三度食うべしとなると、誠に食うのに 忙 ( せわ )しくてこまる。 もし復古をして再び朝夕の二度になったら、学校なども九時から二時というようになって、残りの時間がもっと有意義に使われるかも知れぬ。 生活改良家もまだ活躍の余地は多いわけである。 強いて反抗の多い方面をつついて、苦労をするがものは無いのである。 例を述べていると際限も無い話だが、要するに我々の生活方法は、昔も今も絶えず変っていたもので、また我々の力で変えられぬものはほとんと一つも無いと言ってよい。 老人の 頻 ( しき )りに愛惜する昔風は、いわば彼ら自身の当世風であって、真正の昔風すなわち千年に 亘 ( わた )ってなお 保 ( たも )たるべきものは、むしろ生活の合理化単純化を説くところの、今後の人々の提案の中に含まれているのかも知れぬ。 またこの民族の永久の栄えのために、自分はしかあらんことを望むのである。 勿論美を愛する人の情、ないしは少々のムダをすることに 因 ( よ )って、味わうことのできる心の安さなども、個人の幸福のためには決して無視することを得ないが、それよりも大切なのは一の群としての国民の進歩である。 今の智慮あり趣味ありまた感化力ある人たちの、 気儘 ( きまま )な傾向のみに任せておいて、はたして常に世の中が善くなるとはきまっておらぬ。 それには前に申した分配方法の不当である。 消費方法の拙劣である。 選択の失敗である。 これらがすでによほど大きな損害を国民に与えている。 体質の衰退は独り金歯に 由 ( よ )って知るのみではない。 かつて或る時代の各人が 一 ( ひと )かどの改良なりと信じて世に行った変革の結果が、その実我々に災いした場合は一にして 止 ( とど )まらぬ。 例えば米を精白にして食う風は年を追うて進み、しかも 脚気 ( かっけ )の原因をビタミンBの欠乏に発見したのはつい近頃の事であった。 木綿 ( もめん )や毛織物の濫用、 綾織 ( あやおり )木綿はこの国の湿暑に適しなかったと思うが、それをまだ肯定も否定もできぬ程度の、日本の生理学の進歩である。 すなわちこれらの諸事情を考慮することなくして、独りぎめの生活改善を説くのは、仮に偶然に成績良好であったとしても、悪口ずきの我々はなおこれを盲動と評せんとしている。 いわんや是がために多くの無邪気なる同胞を誤る場合のごときは、決して名誉とか 面目 ( めんぼく )とかいうがごとき、小さな個人の問題ではないのである。 故に 爰 ( ここ )でふたたび繰返して、女性の向かうべき学問の、冷静なる生活観照にあることを言っておきたい。 もし幸いにして多くの婦人方に、この親切なる向学心さえあれば、短い年月の間に日本の女学校における、家政科の教え方は一変することと信ずる。 多くの家の子女は追々に人生幸福の真の意味を理解するであろうと思う。 願うところは生活技術の今後の攻究に由って、国の病の 在 ( あ )り 処 ( か )がよくわかり、従って皆さまのやさしい心配が、結局政治の上に 顕 ( あら )われてくることである。 是が私らの考えている婦人参政の本旨である。 [#改ページ] 我々の着物は、昔から三つの種類に分かれていた。 今でも多数の働く人々は、ちゃんとこの区別を守っている。 その三つというのは、一つは晴着。 関西ではヨソ行キとも 謂 ( い )うが、おもにお祭や 節供 ( せっく )の日に着るからこれをマツリゴ(紀州および 小豆島 ( しょうどしま ))、またはセツゴ(東北処々)などと謂うている。 セツとは節供や 盆 ( ぼん )正月のことで、だからまたボニゴ(岡山県)という土地もある。 生まれ 児 ( ご )がお宮参りに着るのをミヤマヰリゴ( 美作 ( みまさか ))、女がお 歯黒 ( はぐろ )を始めてつける日に着るのがカネツケゴ( 北美濃 ( きたみの ))、年寄が 厄年 ( やくどし )の祝に着るのをヤクゴ( 讃岐 ( さぬき ))というのを見ると、ゴは着物のことと思われる。 仙台では前にはこの晴着をモチクヒイシャウと謂っていた。 是 ( これ )を着る日が大抵 餅 ( もち )を食う日だから、意味はよくわかる。 第二には働く時の着物。 是を仕事着というのは普通だが、土地によってノラギまたはヤマギモノ( 越後 ( えちご ))、海で働く者は沖ギモノ・沖アハセとも謂う。 佐賀県ではハマリギモン、ハマルというのは仕事にかかることである。 大分県にはまたカネトリギモンという名もある。 是を着ていると収入があり金が取れるから、是も意味はよくわかる。 第三には仕事から帰って、うちにいる時に着ている着物。 それだからバンギ( 肥前 ( ひぜん ) 平島 ( ひらしま ))と謂ったり、ヨサイギモン( 下甑島 ( しもこしきじま ))と謂ったり、ヨウマアサマ( 伊豆 ( いず ) 新島 ( にいじま ))と謂ったりする。 東京近くではアヒダキモノ、またアハヒノキモノ(富士郡)、信州越後ではマンバとも謂う。 マンバもアヒダも同じことで、働かぬ時という意味だ。 九州の島々、 壱岐 ( いき )・ 対馬 ( つしま )・ 天草 ( あまくさ )などではケギという。 ケギのケは不断着のフダンも同じで、晴着のハレに対する古い言葉である。 だからたった一枚しか無い着物を、「ケにもハレにも 是 ( これ )っきり」というのである。 今晩は時間が少ないから、この三つのうちの、働く着物の話だけをする。 仕事着を東北地方や北陸地方では、デタチまたはデダチという。 腹掛 ( はらがけ )だけをヅタツと謂ったり( 北飛騨 ( きたひだ )から 能登 ( のと ))、 袴 ( はかま )だけをデンタツという 処 ( ところ )もあるが(秋田県)、元来は「 出立 ( でた )ち」だから、仕事着の全体を一括していうのが正しいのである。 我々のデタチすなわち仕事着は、この頃の洋服も同じように、上と下との二つに分かれている。 ただ洋服とちがうのは、 上衣 ( うわぎ )をさきに着て、下の袴を 後 ( あと )からその上へはくだけで、その上衣はできるだけ短くした。 それ故に九州の南の方、鹿児島県や宮崎県ではこれをコシギンと謂っている。 中国地方から東ではコシキリ、東北へ行くとコシピリまたはコスピリ、或いはもっと 解 ( わか )りやすく、ミヂカと謂っている処もある。 ハンテンという名前も、もとは長さが不断の着物の、半分しかないからそう謂ったので、これをまたハンチャという村も多いが、古い言葉ではコギヌと謂ったようである。 キヌはもと着物のことで、それを小さいのだからコギヌだ。 今でも働く時にしか着ない麻の短い上衣を、コギノ、コイノ・コギンという処は、東北から九州の山の中まである。 この腰きりの短い上衣は、 袂 ( たもと )がぶらぶらしていると邪魔だから、やはり洋服と同じに 筒袖 ( つつそで )になっている。 昔から小さかった袖を、さらに一段と細くし、腕にぴたりと附くようになったのを、気が 利 ( き )いているとしていた時代もあったらしい。 テボソという名前が福井県にはある。 徳島県ではツメコと謂い、北九州ではテグリまたはテグリジバン、またヘウヘウソデという村もあって、働かない 旦那衆 ( だんなしゅう )を 羽織組 ( はおりぐみ )というに対して、多数の働く人々をヘウヘウ組などとも謂っている。 東京の近く、房州の 漁師 ( りょうし )たちは、是をウデヌキともトウロクともいい、信州のアルプス地方には、山に近いだけにヱンコウ袖という言葉もあるが、昔の日本語はテナシまたはタナシであったように思う。 九州の南の方には今でもその言葉が残り、その中でも特に短いのをコダナシと謂っている。 島根県ではそれをコデナシというから、タナシも昔のテナシと同じで、テというのが今いう袂のことらしい。 日本語のソデとタモトとは、今は昔と意味が逆になっている。 ソデは「 袖 ( そで )ふる」と謂って、ぶらぶらしている部分のことであったのを後にタモトといい、衣服の手を 蔽 ( おお )う部分全体をソデというようになって、袖なしという言葉ができた。 仕事着のハンチャがあまり 手細 ( てぼそ )になると、寒い時でももう一枚重ね着するのが窮屈だから、そこで脱いだり着たり便利なように、いわゆるソデナシが盛んに用いられたのである。 東京では年寄か小さな 児 ( こ )だけが袖なしを着るが、他の地方では若い働く人たちが、男も女も是をよく着ている。 九州ではカタギン、東北地方ではツンヌキ、その他色々さまざまの名と形とがあるが、いずれも働く人たちの手を軽く、背中を暖かくするためのもので、これは近世になってだんだんと発達したように思われる。 便利な着物が次から次へと出来てきた。 その中でも働く人の 恰好 ( かっこう )をかえたのは、ネヂ袖というものの流行であった。 これは一方から見るとアヒダノキモノ、すなわち夜とか雨の日とかの仕事の無い時だけに着る物が、今いう不断着になって頻繁に用いられたためで、それはまた晴着が麻布のように長持ちせず、 直 ( す )ぐに古くなる木綿で造られるようになって、いくらも 卸 ( おろ )して家にいる時に着るものになった結果かと思う。 殊に朝早くからデタチの 支度 ( したく )をして、 野良 ( のら )や山に出るのでなく、家にいて時々 力業 ( ちからわざ )をするという町の労働者などは、仕事着にわざわざ着換えるのも手数だから、下着は不断のままで、その上へ一枚の働く着物を着ることになった。 そうすると袂が邪魔になって、手細の 筒袖 ( つつそで )は着られない。 それで今度は手元だけ細く、袖つけの所の広くなった 巻袖 ( まきそで )がはやり出したのである。 この袖は 一幅 ( ひとはば )の袖を斜めに折ってこしらえた。 それ故にネヂソデまたはネヂッコとも謂うのである。 中国地方から東では是をモヂリまたはムヂリ、ムジルというのも 捻 ( ね )じることであった。 その形が 鯉 ( こい )の頭に似ているからコヒグチと東京では謂い、 東上総 ( ひがしかずさ )ではブタグチとも謂っている。 千葉県も南の方へ行くとこれをカモヤソデ、是もそういう意味の言葉らしいが、まだ私にはよく 判 ( わか )らない。 女たちになるとただ不断着を 襷 ( たすき )でくくり上げて、ちょっとした仕事をした。 それではよく働けないので、やはり袖をブタグチにしたウワッパリというものを着た。 これがこの頃の白いカッポウギというもののもとで、つまり不断着を脱がずに、仕事着の役をさせようとした便法である。 仕事着の下の方の部分にも、やはりまた同じような変化があったが、これは女と男とでは少しのちがいがある。 女も男のように短い腰までのハンテンを着たけれども、袴は西の方では 始 ( はじめ )から腰に巻くものであったらしい。 それでは働くのに不便なので、 裾 ( すそ )を少しばかり割り裂いて、足の働きの自由なようにしたのを 前掛 ( まえかけ )まはた 前垂 ( まえだれ )と謂った。 前垂ももとは 四幅 ( よはば ) 三幅 ( みはば )の広いものであったのが、不断着のままで働くようになって、うしろはいらぬから、それが 二幅 ( ふたはば )になりまた 一幅 ( ひとはば )にもなった。 それでも 甲斐々々 ( かいがい )しい仕事ができないので、 襷掛 ( たすきが )けでもする時には、裾をたくり上げたり 端折 ( はしょ )ったりしたのだが、やはりずるずるとしてよくは働けない。 男の方の袴は元来スソボソと謂ってほっそりとしたものであった。 是も袖がテグリジバンのように細いものになるとともに、一旦は非常に細く、ぴたりと足にくっつくようなものになった。 それが今日のモモヒキで、今では誰も是が袴だとは思っていないが、関東や東北でモッペまたはモンペという袴と、もとは一つのもの一つの言葉だったのである。 ところが不断着のままで働こうという人が多くなって、その長い裾をたくし込むだけに、ゆるりとした袴が入用になった。 山形県・秋田県でダフラモッペ・ガフラモッペ、もしくはモクラモッペと謂っているのがそれで、ダフラ・ガフラはだぶだぶとしていることである。 栃木県あたりでモクタリ・ムクタリ・モクズレ、信州の南の方でモックラというのも、やはり腰から下がむくむくとしているからの名らしく、フンゴミというのも、長い着物の裾を袴の中に踏込むからの名と思われる。 そういう名は無くとも近い頃の 田舎 ( いなか )の袴はみな下がふくれて来て、その中には膝から下だけはまだ 股引 ( ももひき )のように細くなっているものと、下まで広くなって足首の所だけが細いものとあるが、どちらにしても町で職人などのはくモモヒキとまったくちがった形のものになり、おまけに一方は上衣の下に隠すようになって、いよいよズボン下のごときものになったが、元来をいえばモモヒキはすなわちズボンなのである。 そうしてまたハカマの一種なのである。 今日では晴着の、儀式の時にしかはかぬもののように、多くの人は考えているようだが、ハカマはもと労働のために、最も欠くべからざる衣類の一つであって、またそういう意味に今でもこの言葉を用いている土地は全国に多い。 衣類の名前は 僅 ( わず )かずつ製し方が変るたびに、必ず新しい言葉ができた。 それは多分以前のままのものもなお用いられているので、それと区別するために何か新しい名が入用になって来たのであろう。 だからズボンと謂いヨウフクと謂っても、それが日本の言葉であると同じように、その名を持つ着物もやはり日本のきものであって、我々はそれを自分の労働に都合のよいように、自由にかえて使っている。 決して西洋人の 真似 ( まね )をしているのでないのである。 一ばん都合の悪いのは 靴 ( くつ )であった。 靴は日本のような夏暑くてむれる国、毎度水の中へ入って働かなければならぬ国では、特別のものが無くてはならぬ。 そうして 是 ( これ )だけは古いものが既にややすたれて、新しいものがまだ発明せられていないのである。 諸君は是からの研究問題として、是非とも仕事に都合のよい日本の靴を、考え出さなければならぬのである。 [#改ページ] 国民服の制定は、予言の試験としても面白い問題だと思う。 僅 ( わず )か十年か十五年のうちに、すぐ一つの提案の夢か夢でなかったかが判定せられるからである。 現に今までの多くの改良意見なるものは、ほとんとみな世間から忘れられている。 大切な事業の、他にいくらも手がつけられずにいる今日だ。 我々はなるだけ 無駄 ( むだ )なことのために、心力を 銷磨 ( しょうま )せぬようにしなければならない。 法令をもって強制しようという腹なら、無論どのようなおかしな着物だって通用するだろう。 そのかわりには余計な違犯者をこしらえなければならぬ。 ほんの 時折 ( ときおり )着る式服なればこそ、服痛などとしゃれて逃げてもおられたのだが、それですら今はあらゆる便法が開かれて、事実は決して統一の効果が 挙 ( あ )がっていない。 ましてや毎日着てあるく着物を、 揃 ( そろ )いにさせようなどというのは大変な話だ。 三人で 一反 ( いったん )の倹約になるから、七千万人では幾らなどと、小学生の算術のようなことを考える前に、どうしたらたった一部分の都合のつく人々の間にでも、採択してもらうことができるだろうかを、討究してみることがまず必要である。 消費は各人経済の苦しい問題であるだけでなく、別に自分の手に合わぬ外部の力が、色々とまた干渉し指導している。 国民はかなり統制に従順な素質をもっていても、こう八方から 小突 ( こづ )かれては迷わざるを得ない。 その 筋路 ( すじみち )をおおよそは見分けてやって、少しでも判別取捨のしやすいようにするのが、先覚と言わるる人の役目ではないかと私は思う。 何故に今日日本人の着物が、世界中を捜しても他には見られぬような、乱雑至極なものになってしまったのであろうか。 この疑問に答え得る人でないと、おそらくは実現の可能なる改良意見は出せまい。 以前は決してこのようなことはなかったのである。 百姓は百姓、 山子 ( やまご )は山子と、誰に 勧説 ( かんせつ )せられなくともみな一様の材料・形式のものを、つい近頃までは着て働いていたのである。 身分や階級の束縛は少しも無かったにもかかわらず、なおしばらくの間は 定 ( き )まった服装を守り続けていた。 それがたちまちに思い思いの姿になったのは、つまりは原因が外にあったからである。 最も大きな理由かと思うのは、家に古着というものが幾らでもできることで、もとは一枚の晴着を一生涯、大事に着ていればかたみ分けにさえできたものが、現在はじきに古くなってしまって、不断着にもならぬものが 溜 ( た )まるから、それを何とかして仕事着に着ようとするのである。 私などの住む附近の 田舎 ( いなか )では、この頃は祭礼の 紅 ( あか )く染抜いた半てんを着ることが、野らで働く青年の一つの好みになっている。 浜方 ( はまかた )ではまた 遠目 ( とおめ )には紳士とも見えるような、洋服人が網を 曳 ( ひ )いている。 是 ( これ )が一番に安上りの、また有合せの材料でもあるが故に、我々の仕事着の統一はまず壊れて行くのである。 以前は国民服は制定しないでもきまっていた。 現在は是だけ大きな流行の力があるにもかかわらず、見ているうちに人が思い思いの姿をして、あるきまわるようになってしまう。 主たる原因は廃物の利用、すなわちその廃物を際限もなく、作り出すような品だけが 売弘 ( うりひろ )められるからである。 スフは 買木綿 ( かいもめん )と比べてまた一段と持ちが悪いかよいか、試してみないのだから何とも言えぬが、とにかくそのようなものが勧められている御時世に、別になお一枚の揃いの衣裳を作っておかせるということは、まずよっぽどむつかしい相談であろうと思う。 どうしてまた日本の着物が、このように改良の止むべからざるものになったかということ、是が一つの大切な問題である。 それを徹底的に究明しておかないと、程なくまた自分が改良せられるにきまっている。 いわゆる洋服の普及を見てもわかるように、今まで町の人などの着ていたものは、一言でいうならば労働に 不向 ( ふむき )であったのである。 階段の上り降りに 裾 ( すそ )がよごれるとか、ドアの 把手 ( とって )に 袖口 ( そでぐち )が引掛かるとかの、新しい建築との折合いが悪いというだけではない。 少しでも仕事と名のつくものをしようとすれば、こんなものを着ていてはあがきが取れない。 元来が働く着物ではなかったからである。 一体日本人ほどよく働いて来た国民が、昔からこういう不自由なものに、朝晩くるまって大きくなったように、思っていたことが歴史の無視である。 儀式に列する少数の男女以外、あんなぶらぶらとした袖を垂れて、あるいていた者は一人だって有りはしない。 上衣と袴とはちゃんと二つに分かれて、手首にも足首にも、まつわるものは何も無かった。 つまり今日ヨウフクなどと 謂 ( い )って有難がっている衣服と、ほぼ同型のものを最初から着ていたのである。 今見る不断着などは式服の下着、というよりも式服を極度に簡略にしただけのもので、是で働けないのは眼をつぶって物が見えないのと同じことである。 都市の生活が始まって、国民に晴の日が多くなり、一方には不断にこういう着物を着ていられる者が、だんだんと増加して来たということもあるが、それよりもさらに経済的な原因としては、労働の様式の以前にように、単純でなくなったことを 挙 ( あ )げなければならぬ。 私は仮に、是を奉公人式作業と呼んでいるが、その奉公人も数多く抱えられて、同じ一家の中でも分業が行われた間は、それぞれの仕事着で働かせたろうが、 後々 ( のちのち )家が小さく世帯が切詰められて、たった一人か二人の若い者を、表の取次から客の給仕、水汲み・庭掃除、 箱葛籠 ( はこつづら )の出し入れ、たまには土ほじりも遣らせようとなると、どうしても着物は中途半端にならざるを得ない。 女房や娘にそんな役をさせようとなるとなおさらのことである。 是が旅館の番頭などなら、メリヤスの 肌衣 ( はだぎ )一つでまっぴら御免下さいと、夜具の上げ 卸 ( おろ )しまでもするか知らぬが、普通の人情ではそれは忍べない。 だから 襷 ( たすき )がけだの 御尻 ( おしり )まくりだの、その他色々の殺風景な変形をして、急場の用に間に合わせようとするのである。 モヂリ・ 鯉口 ( こいぐち )・ 上 ( うわ )っ 張 ( ぱ )り、或いはこの頃はやる 割烹着 ( かっぽうぎ )の類まで、この作業の 頻々 ( ひんぴん )たる変更に、適用せしめようとした発明は数多いが、もともと働かないための着物を、いつも着ていようというのだから無理ができるのである。 是 ( これ )には今一つ中古以来の習わしとして、晴着は町で買い調え、毎日の入用には家で造ったものを、着ることにしていた事実も考えてみなければならぬ。 それが一朝にして全部工場の供給に移り、衣類は洗濯と 僅 ( わず )かなつくろいを除いて、すべて女性の管轄を離れ、亭主の財布の問題となってしまったのである。 こんな気楽なまた自由なことは無いようなものだが、そのかわりには 溜 ( た )まるのは古臭い古着ばかりで、仕事着にでも着るよりほかに利用の 途 ( みち )の無いもので、小さな女房などは 埋 ( うず )まってしまわなければならぬ。 国民服をきめたいという 志 ( こころざし )はよいが、それにはよっぽど長持のする飽きない材料を選ばないと、 揃 ( そろ )いの快さを味わうのは一年にたった二度か三度で、常の日の人のなりふりは、それだけまた乱雑さを加えることに帰着するだろう。 我々が晴着を着なければならぬ機会は、現代に入って 勿論 ( もちろん )非常に増している。 しかし以前とても正月とか祝儀とかの、きちんと 坐 ( すわ )っていればよい場合のほかに、別に活動する晴着というものが幾らもあったのである。 たとえば祭礼の日にも宿老たちだけは、 羽織 ( はおり ) 袴 ( はかま )で 扇子 ( せんす )をもってあるくが、 神輿 ( みこし )を 舁 ( かつ )ぐ若い衆は派手な 襦袢 ( じゅばん )に新しい 手拭鉢巻 ( てぬぐいはちまき )、それが 定 ( き )まった晴着であった。 近年制定せられた礼服なるものには、こういう晴衣はまったく認められていない。 燕尾服 ( えんびふく )ないしは 裃 ( かみしも )という式作法は、最初から多数の参加断念者を予期していたのである。 是が無益の垣根となり、また忍び難い拘束と感ぜられるのは結構なことである。 だから将来の国民服を考えている人たちは、仮に式服礼服に重きをおこうとも、または日常の衣裳を主としようとも、いずれにしても双方をできるだけ近いものにすることを企てなければならぬ。 そうして一方はたまたまの用であり、他の一方は毎日の利不利に関するので、いかに工夫をしてみたところが、今のような礼服のおふるでは山にも行けず、また 甲斐々々 ( かいがい )しく田植をすることもできない。 是にはやはり古風な 村方 ( むらかた )で、今でも稀には見られるように、数ある仕事着の中の最も新しい一つを、着て出ることを許すのがよいかと思うが、そうするとあらゆる職業別を超越した、統一ということが望めなくなるかも知れぬ。 実際にまたそれまでの統一は、強いて行おうとすればきっと誰かが迷惑をする。 衣服の好みは是からもなお一層分化することであろう。 そういう余力のある者の間に、勝手な形や思いつきが流行することまでは制止し難い。 ただ多数の働く人々に心よく働ける着物と、大小の 公 ( おおやけ )の会合へ自由に着て出られる礼服とを、見立てて勧めることとは、誰かがその任に当って 遣 ( や )らなければならぬ。 今日の苦笑すべき紛乱は、むしろその要求の非常に急迫していることと、これに対する幾つかの提案の、まだどこかに 楔 ( くさび )の抜けた所があることを 談 ( かた )っているように私らには感じられる。 だから採用せぬからとてやたらに相手の無知を責めてはいけない。 無知が責むべきものならばそれはお互いさまである。 全体洋服などと称して西洋からの借物でもあるように、なさけながっているのが悪い。 自由に働こうと思えば 筒袖 ( つつそで )に 細袴 ( ほそばかま )、昔から是より以外の服制が有ろうはずはない。 真似 ( まね )だと思えばこそ 小倉地 ( こくらじ )の 詰襟 ( つめえり )なんかで、汗の放散を妨げてふうふうと苦しがらせたり、または寒くて乾燥した大陸でもないのに、あんな窮屈な 靴 ( くつ )を 穿 ( は )かせたり脱がせたり、泥ぼっかいの中をあるかせたり、手も洗わずに 餅菓子 ( もちがし )を食べさせたりするのである。 そのような指導は誰がしたか。 一言でいうならば麻の一千年間の便利なる経験を、まるまる 省 ( かえり )みなかった先覚とやらの誤謬ではないか。 都市の格別働かない人たちのいい加減な嗜好を、消費の標準にさせて気づかずにおけば、まずはこういう結果になって行くのが順当であろう。 一ばん悩んでいるのはおそらくは女の髪である。 僅か百年ばかりも頭をむき出しで、あるきまわるのをよいとしていたら、今ではなんとも 頬 ( ほお )がえしのつかぬことになってしまった。 被 ( かぶ )り物の作法は衰頽の一途をたどっている。 折角単純な公私両 用 ( もち )いの服装を考え出したところで、はき物・被り物を自然の変化に放任しておいたら、頭は 埃 ( ほこり )を怖れ足は泥を怖れて、働こうという男女の職業は茶屋か 店屋 ( みせや )か、行く先はおおよそきまっている。 こういう細かな利害得失は、もう自分で考えるだけの能力は具えている人が多い。 実は我々は余計な指図をするかわりに、もう少し詳しく今までの変遷を、彼らに知らせるようにした方がよかったのである。 [#改ページ] 穀物を粉にしてから調製した食物を、 飛騨 ( ひだ )ではモチと 謂 ( い )う場合が幾つかある。 是 ( これ )はどういうわけか、他にもあることだろうかと、 江馬 ( えま )夫人は疑っておられる。 こういう自然の疑いは、時としては答えよりも尊い。 同じ事実は随分と多くの地方にあるのだが、今までそれに気をつけた人は無いからである。 是は何故に 団子 ( だんご )とは言わぬだろうかという問題に、結局は帰着するのでないかと思う。 そうでなければ何故にシトギという語を、我々が使わなくなったろうかという問題になるのかも知れぬ。 そうしてこの二つの変遷こそは、日本の食物史においてかなり重要な、しかもまだ真白な数頁なのである。 是を明白にする手段は書かれたる書物の中には無い。 この変遷があまりにも公々然と、何らの情実も秘密も無しに、ただ少しばかり 緩々 ( ゆるゆる )と、凡俗大衆の前において行われたために、甲から乙に話して聴かせるような必要が、少しも無かったからである。 こういう無意識の歴史だけは、痕跡の方から 溯 ( さかのぼ )って尋ねて行くよりほかに方法がない。 江馬さんが飛騨で得られた事実も史料の一つであるが、是を有力にするにはなお多くの状態を、比べ合わせて見なければならぬ点が、少しばかり 厄介 ( やっかい )なのである。 粉をまとめた 餅 ( もち )を団子とは言わぬ 処 ( ところ )は実はそちこちにある。 そういう土地でもモチとはもう謂わなくなって、何か第三の語を用いているのが多い。 それを集めて行くと、今日の団子になって来た経歴がわかるかも知れぬ。 今は細かな列記はできないが、東北はやや 弘 ( ひろ )く、ダンスまたはダンシと謂っており、或いは率直にオマルという所もある。 団が外来語なることはよくわかるが、その意味が形の丸いところから来ていることは、もうダンゴという人たちも忘れたらしいのである。 しかし現在でも「団子のような」といえば 円 ( まる )い物を意味するから、元は円いのに限ってそう呼んだことが察せられる。 誰がこういう面倒な名を、常民に教えたろうかは次の問題になるが、この点は 真言宗 ( しんごんしゅう )の僧にでもきけばわかる。 彼らの行相の書には 支那 ( シナ )以来、団という名をもってこの形の 供物 ( くもつ )に 充 ( あ )てているからである。 ダンゴは始めは「 壇供 ( だんく )」とでも書くものかと私も思っていたが、その方はかえって書物には見えない。 団子は捜したら出典があるかも知らぬが、是をもし知っていたらかえって重箱読みはできないだろう。 むしろ文字無しに耳で学んだ故に、ゴの字を附けることも気が 咎 ( とが )めなかったのであろうと思う。 いつ頃から 然 ( しか )らばこのダンゴという語が始まったかというと、それだけは 湛念 ( たんねん )に記録を見るよりほかはないが、そんな手数をかけるがものはあるまい。 近頃見た本では文禄頃の『 鹿苑 ( ろくおん )日録』の中にはあった。 京都では大抵あの頃くらいが始めで、地方はもっと後と見ておいてそう大きな誤りもあるまい。 昔話の中では団子を題材にしたものが少なくとも二つはある。 一つはおろか 聟 ( むこ )の話で、嫁の里に行ってそれを 御馳走 ( ごちそう )になり、名を教えてもらって 還 ( かえ )る 途 ( みち )すがら、溝を飛び越えた 拍子 ( ひょうし )にその掛声と取ちがえ、ピョイトコサ(等々)を 拵 ( こしら )えろと嫁に命じ、それを知らぬというので怒って 火吹竹 ( ひふきだけ )で打つ。 まア団子のような 瘤 ( こぶ )ができた。 おうそのダンゴよというのが落ち。 いくら馬鹿聟でも今なら暗記にも苦しむまいし、また自宅では食ったことがないとも言えまい。 おおよそこの名称が数奇としてもてはやされた時代の、作り話だということは察せられる。 それからもう一つ、 爺 ( じい )が団子を食べようとして取落すと、ころころと 転 ( ころ )がって 鼠穴 ( ねずみあな )へ入ったのを、 後 ( あと )から追掛けて尋ねて行くという話で、団子待て待てどこへ行く、地蔵様のそばまで、などという問答さえあるからふざけている。 ただしこの話の 輪廓 ( りんかく )は古い形で、 鼠 ( ねずみ )に 蕎麦餅 ( そばもち )を御馳走した御礼に、招かれて鼠の国へ行くというのと、穴へ握飯を落したのを追掛けて入ると、中には地蔵様がいてわしが御馳走になった。 そのかわりに御礼をすると 謂 ( い )って鬼の 博奕 ( ばくち )の金をさらえさせる話とがある。 前者を鼠の浄土というから、我々は後の方を地蔵浄土、その 序 ( ついで )に団子の転がって行く話を、団子浄土と呼ぶことにしている。 鼠浄土の方は「猫さえいなけりゃ云々」の 餅搗歌 ( もちつきうた )などがあるために、子どもにはわかりやすくまたもてはやされているが、古くあったかと思う動物 報恩譚 ( ほうおんたん )から見ると、かなり著しい誇張があり笑話化がある。 地蔵浄土も東北と九州とに伝わるものは、地下仙郷譚のなつかしい原型がやや 窺 ( うかが )われるが、他の多くの例はみな法外な改造を受けている。 しかるにもかかわらず、半分以上はまだ蕎麦餅とか握飯とかで、団子がその以後になってようやくころころと転がり出したものであることは確かである。 つまりこの食物の名前と形とが、一つの新しい興味であった時代の、産物であっただけは疑いがないので、しかもその二つの説話のできたのがいつと言えないかぎりは、何だか 鴉 ( からす )の黒雲みたような証拠物だが、 此方 ( こちら )は実はあらまし見当がつくのである。 そこで第二の問題としては、団とか団子とかいう外来の新語が、尋常家庭の小さな供物にまで、またそれからさらに転じて 只 ( ただ )の慰みの食物にまで、適用せられるようになった以前には、米や他の穀粉をこねて製したこの特殊の食物を、何と呼んでいたろうかが考えられるのだが、実は私などはそれがやはりモチであったと思うのである。 「粢」もしくは「 」の字を 宛 ( あ )てたシトギという古語は、明らかに粉製のものの名であって、これを今日 謂 ( い )うところの餅と区別するにはちょうど似つかわしく、何故 是 ( これ )が不用に帰したかを 恠 ( あや )しむばかりであるが、元来この語の成立ちには一つの約束があり、一方にはまた餅の製し方に、かなり著しい古今の変遷があったのである。 この変遷の眼目は、 横杵 ( よこぎね )の発明にあったことは明らかだと思う。 『 和漢三才図会 ( わかんさんさいずえ )』に 搗杵 ( つきぎね )、カチキネなどと呼んでいる現在の杵は、そう昔からあったものでなく、多分はカラウスと前後して共に外から学んだかと思うが、そうでないまでも元の用法は、米を大量に 精 ( しら )げるための杵であって、後に餅搗きにこれを転用したことは、今でも 餅臼 ( もちうす )が是と 不釣合 ( ふつりあい )に小さいのを見てもわかる。 横に 柄 ( え )のあるこの形状の杵が生まれなかったら、蒸した 糯米 ( もちごめ )を 潰 ( つぶ )して餅にすることはできない。 従って現に沖縄県などでもそうしているように、モチはことごとく粉からこしらえなければならぬわけである。 私たちの知るかぎりでは、東京で以前ツキヌキ団子と 謂 ( い )ったものが、この一期前の餅製法を伝えているように思う。 すなわち粉を練ったものをさらに 蒸籠 ( せいろう )にかけて、粘りをつけてからもう一度杵でこねるのである。 モチの米という名はすでに『 和名鈔 ( わみょうしょう )』にも見え、モチという言葉は 鳥黐 ( とりもち )も同じに、粘ることを意味したようだが、それだからとて今と同じ餅が、古くからあったとはかぎらない。 横杵以前の餅は 糯米 ( もちごめ )を用いても、やや粘るというだけでずっと歯切がよく、むしろいわゆる団子の平たいのと、近いものであったろうかと思う。 そうして 強飯 ( こわめし )でもなく 萩 ( はぎ )の餅よりもさらによく 潰 ( つぶ )された新式の餅が、世に現われて 喝采 ( かっさい )せられ、始めて多くの人を餅好きにしたのではないかと思う。 是は「食物と心臓」などという文章の中に、もう大分説き立てているところであるが、私の想像している餅の最初の効用は、味よりもさらに形であった。 他の多くの食物では、芋や大根などの二三の例外を除けば、これを独立させて好みの形をこしらえることができぬのに、是のみ大小方円思いのままで、神にも捧げ人にも進めるのに、これを供するものの心持が自由に現われる。 その点がこの食品の正式の 供饌 ( ぐせん )として、欠くべからざるものになった原因らしいのである。 この目的のためにも、現代の餅は一番に苦心を要する。 鏡餅 ( かがみもち )の腰を高く、あまり 取粉 ( とりこ )を使わずに色沢のよいものを作ろうとすれば、相応に手腕のある餅搗きを頼まなければならぬ。 それに比べるといわゆる団子はやや便利であるが、さらに今一段と理想的なものとして、昔からシトギというものがあったのである。 シトギの製法は全国ほぼ共通で、一見したところいかにも古風である。 洗い清めた白米を或る時間水に浸し、それが柔かくなったのを 見測 ( みはか )らって小さな臼に入れて、 手杵 ( てぎね )すなわち 竪 ( たて )の杵で 搗 ( つ )き砕くのである。 そうして生のままですぐに 折敷 ( おしき )の上に取るのだから、巧みを加えずとも自然に 御鏡 ( おかがみ )の形に成るのだが、今日の生活においては、それだけのものを出来上った食物と言えるかどうかが、まだ少しばかりの問題にはなり得る。 この点は米をなまで食う習慣の消長と大きな関係がある。 日本人の歯というものは、何かよくよくの理由があって、近世に入って急にその働きが鈍り、入歯だ金歯だという騒ぎがえらくなった。 米噛 ( こめか )みという名称は、まだ記憶せられているにもかかわらず、それを意識する機会は絶無になりかけている。 色々柔かい食物が増加したためばかりでもないらしい。 種蒔 ( たねま )きと 苅掛 ( かりか )けの日の 焼米 ( やきごめ )だけは、まだ型ばかりは残ってもいるが、 生米 ( なまごめ )をつかんで口に入れるようなことは、生米 噛 ( か )むべからずという戒めが無くとも、もう 田舎 ( いなか )でも見ることが稀になった。 こうなれば生の 粢 ( しとぎ )を神様だけに上げるのが、むしろまた一つの疑問になろうも知れぬ。 シトギという語には、現在はいくつかの方言ができている。 飛騨では何というか尋ねたいと思うが、信州から 越後 ( えちご )の方へかけては一般にカラコまたはオカラモチといい、 美濃 ( みの )から東海道一帯はシラコモチ、その附近ではまたシロモチというのが普通だから、多分この二つのいずれかだろうと思う。 白餅というのは誠によく当っている。 こういう色をしたものは他の餅類には無いからである。 これをこしらえるのは旧十月の神送り、冬春両度の山の神祭の時などで、家々の楽しみだけには作るということもないが、小児は好奇心が多いから決して軽蔑せず、今でも口を白くしてその供物の 卸 ( おろ )しを食べまわっているという話も聴いた。 しかし大抵の成人はそれを持って 還 ( かえ )って、焼いたり煮たりして食べる。 奥羽にはシトギという語がなお行われ(アイヌ人もシットギ)、またナマストギ・ニシトギという言葉もよく聴くから、或いは尋常の食物としてもこれを製することがあるのかも知らぬが、その他の地方では 偶々 ( たまたま )同じ語があっても、それは 只 ( ただ )至って限られたる意味に用いられる。 たとえば 普請 ( ふしん )の 棟上 ( むねあ )げの日に投げる餅、死人のあった時に 直 ( す )ぐに造って供える団子などは、その製法がすでに今風になっていても、なおこれをシトギと謂う土地が全国に 亘 ( わた )って相応に多く、或いはもう元の語音をなくして、ヒトギだのシトミダンゴだのという者もできている。 手杵と小臼は現在はすでにすたれて、都会の小児などは月中の 兎 ( うさぎ )の絵か、そうでなければ家の 紋 ( もん )に、杵と称して横に柄をつけぬものを見るくらいになっているが、是は一言でいうと『 和漢三才図会 ( わかんさんさいずえ )』時代以後、二百年足らずの間の変遷で、主なる原因は石臼の普及、もう少し細かく言えば、臼の目立てと称して、一種尖って刃のついた 金槌 ( かなづち )をもって石臼に目を切る職人が、農村の 隅々 ( すみずみ )まで巡回するようになった結果であり、豆腐の流行などとおおよそ歩調を合わせていると思う。 江戸の 左右 ( さう )むかひの亭主登られて 芭蕉 こちにもいれどから臼を貸す 野坡 ( やば ) 方々に 十夜 ( じふや )のうちの 鉦 ( かね )の 音 ( おと ) 芭蕉 という有名な一続きがあるが、 前句 ( まえく )が向いの亭主、 受句 ( うけく )が十夜だからこのから臼は、 粉挽臼 ( こなひきうす )であることが察せられる。 すなわちまだあの時代までは中央部の都会でも、家々に一つずつの石臼は無かったのである。 から臼という言葉は今日の辞典を見ると、こんな石臼までは含んでいない。 普通に「 地 ( じ )がら」と呼ぶ地面へはめこんだ石の 搗臼 ( つきうす )、是も『 続猿蓑 ( ぞくさるみの )』には、 一石 ( いっこく ) 踏 ( ふ )みしから 臼 ( うす )の米 沾圃 ( せんぽ ) などという句があるから、当時すでにこの「地がら」をもそう 謂 ( い )っていたのである。 次には 挽木 ( ひきぎ )を取附けた 籾摺臼 ( もみすりうす )、是は 籾殻 ( もみがら )を出すので殻臼だなどと謂う説もあるが、根っから当てにはならない。 いずれにもせよこの二種のから臼では、前者は 勿論 ( もちろん )貸借りができず、また籾摺臼も町中には有ろうとも思えぬから、別にもう一つの小形の石臼も、同じ名をもって呼ばれていたので、起こりはかえって 此方 ( こちら )にあり、廻わして引くという根本の法則が、ともに在来の搗臼とはちがっている故に、大小を通して 唐臼 ( からうす )と謂い、「地がら」はすなわち地唐臼であって、系統は異なるが 杵 ( きね )を用いぬという特徴のために、是またカラという語を冠せるにふさわしかったのであろう。 搗臼で粉を造ることは、今から考えると煩わしい作業であった。 シトギのごとく湿った粉でよければ、水に浸して柔かくしてもおける。 きな粉・ 炒粉 ( いりこ )のように火にかけたものもまた 砕 ( くだ )けやすい。 蕎麦 ( そば )などは押し潰せるから是もまだ始末がよい。 生米・生小麦を粉にして貯え、入用の時に出して使うということは、挽臼無き時代にはほとんと望み難かった。 したがっていわゆる時々の好み物の調理には、かなり女たちの長い骨折りな準備を要したのである。 一たび石臼の目立ての村に入り込む時代がくると、是が彼らに調法がられ、 手杵 ( てぎね )が純乎たる兎の持物になってしまった事情も想像するに余りがある。 関東地方の粉の需要は、それでもまだ足りなくて粉屋という商売が起こり、かの豊年万作の 踊歌 ( おどりうた )にもまた村々の粉ひき歌にも、粉屋の娘が人望ある題材となっている。 マコとかシンコという言葉が、通例米の粉の名となっているのも、 絹篩 ( きぬふるい )という目の細かな篩が流行して、書物の名とさえなったのも、ともに近代の製粉界の改良第一を語るものであった。 そうして同時にまた年久しきシトギ文化の、退縮を意味するものである。 物固い旧家だけでは、神祭の餅ばかりは古風によって、 生粢 ( なましとぎ )をこしらえていたかも知らぬが、是も他の一方に 練餅 ( ねりもち )の堂々として且つうまいものが 搗立 ( つきた )てられるようになっては、此方が感じもよく、また現実には 直会 ( なおらい )にも便利であった。 それに第一元のような杵と臼とが、もう家ごとには備わっておらぬようになって、 処 ( ところ )によっては 擂木 ( すりこぎ )すなわち 摺小杵 ( すりこぎね )をもって、米を砕いてシトギを作ろうとしている。 こうなっては保存の価値がいよいよ減少するのである。 餅と団子との今日のような明白な区別は、要するに杵と臼との二方面の改革に始まると、私などはほぼ確信している。 それ以前は両者製法も近く、味もまたよく似ていたことと思われる。 名称の方から言っても、モチは必ずしも 糯米 ( もちごめ )で製したものに限らず、またシトギを焼いたりうでたりして、食いやすくしたものだけがモチだとも限らなかったと私は思う。 というわけは、生でも米の粉だけは結構食べられたからである。 餅は搗いた当日は決して焼いてはならぬと謂い、或いは正月三ガ日だけは焼いて食うことを戒めたりする風もある。 実際また神には生で供え、人は焼かなければ食べぬなどということは、今日の神道祭式には認められているが、少なくとも民間の 節供 ( せっく )思想、すなわち神と人の 食饌 ( しょくせん )を同じくする習慣とは反するのである。 ただしシトギはシト打ツなどという語とともに、水で湿らせる意味から出たかとも思うが、モチの語原に至っては今はまだはっきりとしていない。 或いは古くはモチヒと謂ったから、モチイヒすなわち今日のお 萩 ( はぎ )・ 牡丹餅 ( ぼたもち )のようなものだけが、モチであったはずだと思う人があるかも知らぬが、仮にそうだったところが、しからばモチイヒのモチは何かという問題の答えにはならない。 のみならず餅は中世以前でもやはり 定 ( きま )った形があり、且つ個人の所属の明らかな御供えであって、この点が飯や汁の共有状態にあるものから一歩出ている。 そうしてモチヒがイヒの一種だという推測もやや 恠 ( あや )しいのである。 是が安心してよい解説のつくまでは、我々はなお何度でもくり返して、江馬夫人のごとき率直なる疑惑を、表示しつつ進むのほかは無いのである。 [#改ページ] 私の研究は着手が遅く、またこの問題があまりにも広汎であるために、いまだ全般の傾向を一つの文章に要約し得る状態にまでは達していない。 僅 ( わず )かに比較的重要だと思う若干の事実を、やや順序立てて叙述することによって、幾分でも 嗣 ( つ )いで起こる学者の労力を省くことができるとすれば、まずそれをもって一応は満足しなければならぬ。 標題のいささか奇を好んだのは、古来不当に省みられなかった一箇の大きな生活問題のために、もう少し多くの経済史家の注意を引きつけたいからである。 食物の変遷、我々日本人の食事が前代と比べて見て、いかに改まっているかを知るには、最初にまず 晴 ( はれ )と 褻 ( け )との差別を明らかにしてかかる必要がある。 いずれの民族においても共通に、この二つの者の次第に混同してきたことが、近世の最も主要なる特徴であったからである。 晴と褻との対立は、衣服においては殊に顕著であったように考えられている。 晴衣 ( はれぎ )という語は標準語中にもなお存し、 褻衣 ( けぎ )という語も 対馬 ( つしま )・ 五島 ( ごとう )・ 天草 ( あまくさ )など、九州の島々には方言として行われている。 すなわち一部には今も 活 ( い )きて働いているのだが、しかも両者の境目は次第に忘れられようとしている。 たとえばイッチョウラという語は、 一梃蝋燭 ( いっちょうろうそく )という戯語から出たもので、ケにもハレにも 是 ( こ )れ一つということを意味したものであるが、何でそういい出したかを知る者が無い。 「ケにもハレにも」という成句自身も、折々これを用いる老人などは有るが、すでに間違えてしまって、「テンもハリヤも」などと 謂 ( い )っている土地は少なくない。 そうして我々の常用の褻衣には、晴衣の古くなったのをそのまま用いるようになってしまった。 是 ( これ )に比べると食物にはなお事実上の差異が少しは 遺 ( のこ )っている。 我々は改まった節には晴の 膳 ( ぜん )に坐り、常の日には今でも褻の飯を食っているのである。 すなわち眼前の事実を観測して、その中から年久しい慣習の跡を 覓 ( もと )めることができるのである。 都会では今や宴会のほとんと全部が家の外の食事、もしくは主人一人の食事となって、これより他には晴の食事をする場合が無くなった。 家々の家族は毎日のように、東京でいわゆる 御惣菜 ( おそうざい )ばかりで御飯を食べている。 これに反して 田舎 ( いなか )では、正月と 盆 ( ぼん )は申すに及ばず、大小の祭礼や休みの日には、カハリモノと称して通例でない食物を給与せられる。 常の日の食物が思い切って平凡であるだけに、家族一同婦人小児までが、これに参与することを楽しみにしている。 すなわち今でも改まった晴の食事の機会は多いのである。 節供は本来はこの食事を意味する語であった。 供とは共同食事、神や祖霊とともにすべての家族が 相 ( あい )饗することであり、節はすなわち折目、改まった日ということであった。 オセチという語は年越の日の食事の名に残っているが、或いはまた 餅 ( もち )を意味する地方もある。 こういう晴の食事には、衣服もまた晴のものを着た。 それ故に晴着を「餅食い衣裳」という例も有るのである。 数量回数の点からいうと、褻の食事の日は一年に三百日以上、朝夕二食を 算 ( かぞ )えると七百回近くまでがそれであり、非常に貧しければ晴の食はもっと少なくなる。 経済上の重要度は、むろんこの方が遥かに高いと言い得る。 世の多くの学者の食物論が、 是 ( これ )ばかりを目標としているのも一応の理由は有る。 しかし他の一方の重要性はいわば宗教的であった。 我々の精神文化と深い交渉のあるのは、もっぱら晴の食物であったのみならず、それがまた全体の生活様式に、人知れぬ 刺戟 ( しげき )を与えていることも事実である。 史書文献の今日に伝わっているものは、通例はこの部分に限られている。 料理という語は晴の食物を調製することだけを意味し、料理物語という類の記述は常の日の食事には触れていない。 したがって当世の経済史家、すなわち文書に 拠 ( よ )って食物の歴史を知ろうとする人々は、自身まずこの晴の食事の慣習の影響を受けざるを得ないのである。 問題の重要性は常の食物の上に認めて、是を 詳 ( つまびら )かにせんとする史料は、異常食事の記録に求めていたのである。 現代の学界がこの最も痛切なる消費経済の沿革に関して、いまだ多くのものを我々に教えなかったのは、一言でいうならばこの方法の 誤謬 ( ごびゅう )からである。 それで私はここに改めて、現在眼前に横たわっている書外史料、すなわち我々が自身の眼と耳とをもって、直接に観測し採録し得る社会事実をして、自らその履歴を語らしめようとするのである。 晴の食事の形の崩れた理由としては、いくつかの重要なものが挙げられるが、最初に気のつくことは是と常の食事との中間に、どっちつかずのものが現われてきたことである。 ヒルマすなわち昼食というものが我々にも普通となり、いわゆる三度の食事を要するに至ったのは最も大きい変遷である。 以前の食事が朝夕の二度であったことは、江戸期の学者もこれを説いている。 奥羽 ( おうう )で一般に 一 ( いっ )パイと謂い、九州ではゴ 一 ( ひと )つと称えたのは、ともに今日の 桝目 ( ますめ )の約二 合 ( ごう )五 勺 ( しゃく )であった。 是が 一人扶持 ( いちにんぶち )の五合を二つに分けて、朝夕かたけずつ食わせた痕跡であることは疑いが無い。 多くの農家には関西でゲビツ、東北でケシネギツなどという 糧米櫃 ( ろうまいびつ )があって、その中にはほぼその分量を盛る 瓢 ( ひさご )または 古椀 ( ふるわん )などが入れてあった。 この器をもって家に働く者の名を思いつつ量り出せば、主婦には掛け算の胸算用をする必要が無かった。 そうして常の日の食物ごしらえは、今よりもはるかに簡略で済んだのである。 ヒルマは元来は 餉 ( しょう )すなわち運搬せられる食物の名であった。 今でも是を家における昼飯と区別して、田植の日などに屋外へ持ってくるものだけを、ヒルマと呼んでいる地方は多い。 おそらくは最初或る特殊の作業の日だけに、こういう食物を調えて 田人 ( たびと )をねぎろうていた習慣が、追々に拡張してきたものであろう。 しかも 烈 ( はげ )しく働く日が多くなって、三度はいつの日でも食わずにおれぬようになったのみならず、さらにそれ以上に春の末から夏にかけて、午前と午後ともう一度ずつのコビルというものを運び出すことにさえなった。 総計で少なくとも五度は食事をする。 是などは明らかに上代からの旧慣ではなかったのである。 小昼 ( こひる )は 何処 ( どこ )でも午前十時頃と、午後三時頃とに給与せられる。 関東では普通に是をコヂウハン(小昼飯)、もしくはコヂハンなどと 謂 ( い )うが、東北は秋田県のごとく、昔の通りコビリマンマという土地も多い。 越中 ( えっちゅう )では 訛 ( なま )ってコボレと謂い、またナカマとも謂っている。 ナカマはすなわち中間食の意で、九州でも 薩摩 ( さつま )の南端でナカンマとも呼んでいるから、かなり古くからの名であったことがわかる。 山陰地方は一帯に、この食事をハシマと謂って通ずる。 ハシマもハサマもまた中間の食物の意であって、村によって是をまた小バシマとも、コバサマとも謂うのを見ると、前のコビルマと同様に、ハシマが本来は今の昼飯のことを意味したことが察せられる。 すなわちハサマはもと朝夕二度の常食の中間にたべるものの名であったが、昼飯が定例となると、さらに転じて是と朝夕二度の飯との、中間のものを指すことになったのみならず、今日九州北部などにおいて、ハサグヒまたはハダグヒと謂うのは、ただのお 八 ( や )つやお十時の間食を意味するのである。 近畿 ( きんき )とその周囲の諸県でケンズイという語は、『 閑田耕筆 ( かんでんこうひつ )』にもすでに注意しているごとく、「間食」の 呉音 ( ごおん )であって寺家から出た言葉らしいが、是を東国の小昼飯の意味に農村では用いており、 町方 ( まちかた )では子どもに与えるナンゾと同じように解しているほかに、中国・九州では普請の日に、大工や手伝に給与する酒食にかぎって、ケンズイまたはケンジーと謂う土地も多い。 言葉は保存せられても内容はもう変化しているのである。 右の五回の食事のほかに、また夜食というものがある。 夜なべに働く人々に食わせるだけでなく 吉凶 ( きっきょう )さまざまの事件のために、夜遅くまで起きている人にも出す。 日中の間食を或いはヒナガとも謂うに対して、是をヨナガというのは夜長であろう。 肥前 ( ひぜん )の 島原 ( しまばら )半島などでは是をヨナガリとも謂うそうである。 妙な言葉であるがその起原は、朝食をアサガリという語にかぶれたものと思う。 アガルは田畠仕事場から 上 ( あが )ってくること、すなわち休息を意味する。 どんなにせわしい日でも食事の時間だけは休む。 それで食事をアガリとは謂い始めたのである。 朝上りという語は通例の朝飯以前にすでに一働き働いていた痕跡にほかならぬ。 多くの農家ではその朝仕事に就くために、別に起きぬけに簡単なる一回の間食をさせている。 それと夜食とを加えると、都合七度は食うことになるのである。 この早天の間食を、陸中 遠野 ( とおの )などでアサナガシというのは古語らしいが、今は全国ほぼ一様に是をオチャノコと呼ぶことになっている。 御茶の子の材料は 区々 ( まちまち )である。 鍋 ( なべ )に残った前夜の飯の余りを食う場合もあるが、東日本では普通そのために 焼餅 ( やきもち )というものがある。 稗 ( ひえ )や 蕎麦 ( そば )の 粉 ( こ )や 屑米 ( くずまい )を 挽 ( ひ )いたものを水で練って、大きな 団子 ( だんご )にして 炉 ( ろ )の火に打ち込んで焼く。 それを引き出して灰を払い落したものが一個ずつ与えられる。 山村では馬上にそれをかじりながら、娘や男が朝草を 苅 ( か )りに出かけるのである。 江戸でも以前はそういう生活があったと見えて、楽な仕事だ小さな骨折りだという意味に、「そんな事は朝飯前だ」とも謂えば、また「そんな事はお茶の子だ」とも謂っている。 すなわち御茶の子は朝飯前の食事であったのである。 茶は農民の最も愛用したものと見えて、ハシマ・コバサマ・コヂウハンのことを、御茶と呼んでいる地方も甚だ多く、食事と食事との間の時間を、ヒトコマンチャなどと薩摩では謂っており、単にチャドキといえば午後三時もしくは午前十時頃を意味していた。 茶とはいうけれども必ず固形物を伴ない、それも漬物の塩気ぐらいでは、働く人々は承知しなかった。 オケヂャもしくはウケヂャという食物は、日本海側では 越後 ( えちご )や 出雲 ( いずも )、太平洋側では紀州の 熊野 ( くまの )、 備中 ( びっちゅう )あたりにも分布している。 或いは 炒米 ( いりごめ )と 甘藷 ( かんしょ )とを合せ炊き、または豆飯であったり茶飯であったりするが、とにかくにどこでも味附け飯のことをそう謂っている。 こういう一種の食物が発明せられまた 弘 ( ひろ )く行われたのである。 早天のいわゆる御茶の子を除いて、その他の間食はみな御茶と謂っている。 東京でも職人には必ずこの御茶が給与せられる。 それがさらに拡張して簡単なる 客招 ( きゃくよ )びをも、御茶と謂っている 処 ( ところ )は方々にある。 東日本では主として仏事の小宴が御茶だが、九州では誕生・婚姻のごとき、吉事にも人をこの御茶に招いている。 茶樹が外国の輸入だという説は誤りだが、少なくとも茶の飲用だけは中世以後に始まっている。 従うてこの語の固有のものでないことは明らかだが、それが代表している 頻々 ( ひんぴん )たる食事回数も、おそらくはまたそれより古くなく、両者ともにこれを促した原因が新たに起こったものと思われる。 食事の回数の増加は、もちろん栄養量の増加とは関係が無かった。 以前朝夕ただ二度に喰い尽していたものを、五度にも七度にも分けて食うという場合もあったか知れない。 人が喰い溜めをする力というものが、是についてまず考えられる。 喰い溜めは 睡 ( ねむ )りだめとともに、以前は壮年の男の長所の一に 算 ( かぞ )えられ、或いは努力修養すべき美徳とさえ考えられていたようである。 是が無用になったのは平和の世の恩沢であろう。 次に考えられるのは趣味すなわち人が幸福になろうとする念慮、および労働する人々の希望が少しずる容れられてきたことであり、最後にはそれを支持しまた可能ならしめた先例と社会慣習が、この事実を透して 窺 ( うかが )い知られるのである。 慣習は多くは古いものであるが、それとても不変常在のものではなかった。 何か偶然の機縁で始まったことが、次第に 悦 ( よろこ )び迎えられて 確乎 ( かっこ )たる先例を作り得たのである。 いずれにもせよ食事回数の増加は新しい現象であって、しかもその普及によって意外なる変化を我々の生活に及ぼしたことは確かである。 ヒルマや小ビルマはもとは限られたる日の食事であり、また特別の調理に成るものであった故に、用途は 褻 ( け )であったけれども、人に 晴 ( はれ )の食物のような好い印象を与えた。 それから今一つはいずれも分割と運搬とを許す食物であったために、他の多くの 雑餉 ( ざっしょう )と同様に、次第に共同食事のいろいろな拘束から、独立して発達することになり、その結果はついに家々または各個人の食物選択の自由を、促進する動力ともなり得たのである。 元来食物の 褻 ( け )と 晴 ( はれ )との差別は、必ずしも材料の優劣を意味してはいなかった。 晴の日の食物とても皆うまい物とは限らず、常の日以下のものさえ折々は用いられている。 たとえば 稲苅 ( いねか )り終って後の農神祭には、 土穂餅 ( つちぼもち )またはミヨセ団子などと称して、仕事場の臼のこぼれを掃き寄せたものを食料とし、夏のかかりの水の神祭には、小麦の粉をこねてボロソ餅などを製している。 ただ大いなる二者の相違は、その調製のために費さるる労力の量であった。 ケシネすなわち平日の飯米は、一度に多く 搗 ( つ )いて始めから 粟 ( あわ )・ 稗 ( ひえ )の定量をまぜておき、それを毎日片端から 炊 ( た )いていた。 アハセもしくはオカズという副食物も、大体に手数のかからぬ物をきめて、いつも同じような 献立 ( こんだて )をくりかえしていた。 是 ( これ )に反して時折と称する節の日には、必ずシナガハリを 拵 ( こしら )えて食ったので、カハリモノは通例みな多分の準備を要するものであった。 女が当然にその役目をつとめる。 家に女性の重んぜられた理由の、最も大いなるものは晴の食物の生産と分配にあった。 酒の歴史においてはこの点がすでに認められているが、餅や団子についても女の機能は同じであった。 是を説明するには一通りハタキモノの沿革、すなわち臼の歴史を叙述しなければならぬ。 神代の記録の中にも、すでに葬式の日に 舂女 ( つきめ )が働いたことが見えているが、その風は今でも 田舎 ( いなか )にはなお残っている。 独り突如として起こった不幸の場合のみならず、 予 ( かね )て 定 ( き )まっている祭典祝賀のすべての日にも、元は是に先だって臼の仕事があり、その臼はすべて 手杵 ( てぎね )であった( 碾磑 ( てんがい )の輸入はかなり古いけれども、その用途は薬品香料のごとき、微細なものに限られていたようである)。 吉事の支度には三本杵が用いられた。 すなわち三人の女性が是に参与したので、臼に伴なう古来の民謡はいずれもこの手杵の操作をその 間拍子 ( まびょうし )に用いている。 その臼には大小の種類があって、米麦でいうならば 粡搗 ( あらづき )から精白を経て、是を粉にしてしまうまで、以前はことごとく 搗臼 ( つきうす )の作業であった。 籾摺臼 ( もみすりうす )の普及は一般に新しいことであるが、製粉の方だけは土地によって、百年以上も前から石臼をまわして 挽 ( ひ )いていた。 しかし是もまたかつては皆はたいて粉にしていたことは、 炒粉 ( いりこ )をハッタイと謂うただ一つの語からでも 判 ( わか )る。 そうして現在もまた 辺隅 ( へんぐう )の地においては、その方法が持続しているのである。 臼で穀物を粉にする方法は、昔から三通りあったようである。 その中でも最も面倒なのは、今の製粉工業のごとく生のままで粉にはたくことであった。 他の二つは是に比べるとともに遥かに簡便なもの、すなわち 炒 ( い )って 脆 ( もろ )くしてこれを 搗 ( つ )き砕くのと、今一つは水に浸して柔らげて押し 潰 ( つぶ )すものとであった。 米にも東北ではシラゴメと称して、炒ってはたいて食うものがある。 津軽・秋田等のシラゴメは、八月十五夜の正式の供物で、或いは女には食うことを許さぬ土地さえある。 大豆の 炒粉 ( いりこ )はキナコと謂って今も普通であるが、豆にはご 汁 ( じる )や豆腐のために今一つの水浸けの法も行われている。 炒り搗きを主とするのは麦類が多かった。 是は他の方法の殊に施し難いのと、今一つにはこうして食うのが最も 旨 ( うま )かったからであろう。 いろいろの名称があるが、コガシという語は最も 弘 ( ひろ )く行われ、また 夙 ( はや )く『新撰 犬筑波集 ( いぬつくばしゅう )』にも見えている。 是を 訛 ( なま )って 大和 ( やまと )ではコバシ、 土佐 ( とさ )ではトガシとも 謂 ( い )っている。 東京附近のコウセンは、 香煎 ( こうせん )との混同だと思っている人も多いが、或いはまたコガシの転じたものかも知れぬ。 以前の標準語でオチリまたはオチラシと謂ったのは、この粉のこぼれやすいところから出た名で、すなわちまた粉のままで食う食物なることを語っている。 これ以外にやや珍しい一例は、 淡路 ( あわじ )でワカトと称する正月八日の晴の食物で、是は米と大豆とを交ぜて炒ったものを、挽いて粉にして神にも供えている。 他ではあまり聞いたことはないが、現在オイリと称して 雛 ( ひな )の節供などに、豆と米粒と 霰餅 ( あられもち )とを併せて炒ったのを食うのが是に近く、ただ一方では臼のかわりの役目を、各人の 臼歯 ( きゅうし )に委譲しただけの相違である。 それから考えていくと、滋賀県北部などで麦の 炒粉 ( いりこ )をカミコと謂うのと、 飛騨 ( ひだ )で 焼米 ( やきごめ )をカミゴメというのと、二つの言葉の似ているのは偶然でなく、双方ともに以前は儀式の食物であったことが推察せられる。 記録の側でも焼米の出現は古い。 はたいて是を粉にする風習は、是に次いで起こったものであろう。 炒り粉はこしらえて 直 ( す )ぐに賞玩しないと味が悪くなる。 是がこの食物の晴の日の用に、元は限られていた理由かと思う。 是に反して生の穀物を 搗 ( つ )いて粉にしたものは、貯蔵にはずっと便利であった。 それだから同時にまた 褻 ( け )の食物としても使用せられたのである。 石の 挽臼 ( ひきうす )が 弘 ( ひろ )く行われるまでは、麦類はかえって 生粉 ( なまこ )には向かず、主としては 屑米 ( くずまい )・砕け米等の飯にはならぬもの、次には 蕎麦 ( そば )などが盛んに粉にはたかれていた。 山野で採取せられる 葛 ( くず )・ 山慈姑 ( やまくわい )・ 蕨 ( わらび )の類、 甘藷 ( かんしょ )・ 馬鈴薯 ( ばれいしょ )等の栽培球根は、水分を利用して粉砕せられたけれども、のちに乾燥して貯蔵する故に、やはり常食の中に加えられている。 生粉の調理法は二通りある。 その一つは直接に熱湯を注ぎかけて和熟せしめるもの、 三河 ( みかわ )の北部でカシアゲコと謂い、越後の 中蒲原 ( なかかんばら )あたりでコシモチというのも是らしいが、普通にはカイモチと称して蕎麦だけをそうして食うことになっている。 しかし我々の 葛湯 ( くずゆ )のこしらえかたのように、簡単にできるものなら何でもこうしてかいて食ったもので、カクというのは 攪拌 ( かくはん )することであったらしい。 関東の山村でカッコというのは蕎麦カキのことだが、岡山地方の 田処 ( たどころ )で、カキコと謂っているのは米の粉を湯でかきまぜ、甘藷の煮たのなどとともに食う、飯の不足な急場に作るものだそうである。 奥羽の 八戸 ( はちのへ )あたりでカッケというのも、名前の起こりは同じであろう。 現今は練ってからもう一度 ( ゆ )でるので、やや食い方のちがった 蕎麦切 ( そばき )りに過ぎぬが、元は 只 ( ただ )かいて食うからカッケと名づけたものと思う。 能登 ( のと )ではカイノゴは三番以下の 籾 ( もみ )まじりの粗米で、団子の材料にするものだと謂っているが、その米の粉をもまたカイノゴというから、やはりかい餅にする粉という意味であった。 それを汁に入れて再び煮たものを、伊勢ではやはりカイノコ汁というのは、是も奥州のカッケのごとく、のちに調理法がやや改良したのである。 多くの食物史家には無視せられてしまったけれども、穀粉の消費も古くから相応に多く、殊に小麦粉が石臼で挽かれるようになると、それだけまた農民の食品は変化を加えたのである。 信州の北部でツメリ、関東でツミイレと謂ったのは、通例粗米の粉を水で練って汁の中に投じて煮たものであった。 関西ではこれを汁団子、または単に汁ワカシとも謂って、 冬分 ( ふゆぶん )三食の一度はこれを食わぬ農家も稀であった。 ただあまりにもそれが尋常であり、また公衆の話題とするに足らぬが故に、書物にも録せられず、人もまた是をわが土地ばかりの偶然の事実のごとく考えたのである。 単なる過去の貧しい生活の跡としてならば、忘れてしまうのも一つの幸福かは知らぬが、我々の新たに知り得ることが、是と伴のうてなお色々と残っていたのである。 少なくともどうしてその種の慣行が起こり、またかくまで全国に行き渡っているかを、一応は考えてみる必要が有ると思う。 大体に日本人は生活のこの部面において、甚だしく変化を好んでいたように見える。 現代の多種多様なる飲食品目を見ても、輸入採択の歴史の明らかなものが多く、是だけは昔から、たとえば十代の祖先の世と同じであろうと認め得るものは、有るのかも知らぬが自分などにはまだ一向に見つからない。 どうしてまた食法がこのようにひどく変ったものか。 本来変化して止まらざるものであったのか。 はたまた近世に入って急激に古風が消えたのか。 もし後者だとすればその原由や 如何 ( いかん )。 食物は人が生きているということの、何よりも主要な外貌である。 それに是だけ多くの未解決の問題を持ちながら、勇敢なる概括に走ることは順序が悪い。 少しは面倒でもやはりこの根本から、事実を積み上げて行く必要が有るように私は考えている。 近世の一つの顕著なる事実は、石の挽臼の使用が普及して、物を粉にする作業がいと容易となり、従うて是を貯蔵して常の日の褻の食物となし得たことかと思う。 是と前から有った粉製の晴の食物とは、味や形において格別の差のないものも多く、珍しくなくなれば有難くもなくなり、その結果はまた古来の二種の食事の、 分堺 ( ぶんかい )をぼやけさせた原因となっているようである。 是について私の心づいた一つの例を挙げると、『全国方言集』には宮崎県のどこかで、食用米をデハと謂うとある。 他の地方ではまだ聞いたことがなく、語の意味も取りにくいが、『 壱岐島 ( いきのしま )方言集』にはあの島の常食の一種として、芋と穀物の粉とを 釜 ( かま )で練ったものをデーハと謂うとあって、少なくとも起こりは一つであるらしい。 そうしてこの類の補食方法ならば、弘く他の地方にも行われているのである。 伊豆 ( いず )の 新島 ( にいじま )でネリコと謂ったのは、甘藷の粉を米麦飯の中に入れて攪拌したものだということであるが、是はこの島に 薩摩芋 ( さつまいも )が入ってから後の変化と思う。 山梨県東部の山村では、蕎麦粉と 南瓜 ( かぼちゃ )とを練り合わせたものをオネリということあり、同県西北隅の田舎にあっては、モロコシの粉を練って作る食物がオネリだという。 原料にはよらなかったのである。 秋田県 河辺 ( かわべ )郡のネリガユは、 粃米 ( しいな )の粉であってこれを 午食用 ( ひるめしよう )に供し、三重県南海岸のネリゲはまた蕎麦粉であった。 この地方に行わるる 茶揉 ( ちゃも )み唄に、 志摩 ( しま )のあねらは何 食 ( く )て 肥 ( こ )える 蕎麦 ( そば )のねりげに 塩辛 ( しおから )添へて うまい/\といふて肥える と歌ったのは、もとより貧しい人々の自嘲の笑い歌であったろうが、かつてはまたそんな食物をもって米の消費を節約する必要もあったことを意味する。 そうして是が忙しい労働の日においても、なお企て得られたのは製粉法の進歩であり、同時に我々の祖先の才覚のすぐれた点でもある。 尤 ( もっと )もこれらの材料の中には、凶年その他の極度の欠乏の中で、始めて実験したものが多かったろうが、製作が簡便でなかった間は、平日にこれを利用することはできなかった。 蕨 ( わらび )の 根餅 ( ねもち )や 葛 ( くず )の粉の類は、今でも 飢饉 ( ききん )の際にはこしらえて食うだけで、かつて一般の常食の資料には編入せられたことがなく、かえって各地の名物として改良せられている。 つまり手数の掛ると掛らぬとが、二通りの食事の主たる差異であったからである。 いわゆる 麺類 ( めんるい )はこの意味において、今なお村落では晴の日の食物である。 是 ( これ )が三度の食事よりも、さらに自由に得られるということは、都市においてもそう古くからの現象でなく、しかも一たびその風習が起こると、たちまちにして大いなる町の魅力となったのは、 餅 ( もち )や 団子 ( だんご )も同様に、簡便なる石の 挽臼 ( ひきうす )の普及に助けられたので、古風な規則正しい 田舎 ( いなか )の生活が、外部の影響に勝てなかった弱味も 爰 ( ここ )にあった。 東北で今日ハットウと 謂 ( い )っているのは、主として 蕎麦 ( そば )のかい餅をつみ入れた汁類のことであり、出来た食品が関西のハッタイとはまったく違っているために、両者もとは共にハタキモノの義であったことは忘れられている。 栃木県の東部では是をハット汁と謂い、あまりに 旨 ( うま )いから飢饉年には作って食うことを禁じた、それで 法度汁 ( はっとじる )と謂うのだという説明伝説まで生まれている。 しかしこの名称と調理法は、古いと見えてかなり 弘 ( ひろ )く分布している。 たとえば信州でも 下伊那 ( しもいな )方面にはハットという語があって、 只 ( ただ )その川上から甲州の盆地にかけて、是をホウトウと謂うのである。 ホウトウは現在の細く切った蕎麦・ 饂飩 ( うどん )の原形であったろうと思う。 刃物を当ててもごく太目に切るだけで、中には 紐 ( ひも )のごとく手で 揉 ( も )んで細長くし、食いやすくするだけのものもある。 是を 小豆 ( あずき )とともに煮たものをアヅキボウトウとも謂っている。 三河の 渥美 ( あつみ )半島では三十年余り以前、私も是をドヂョウ汁と謂って食わされて 喫驚 ( びっくり )した。 珍しい名前も有るものと思っていると、 佐渡島 ( さどがしま )でも 蕎麦切 ( そばきり )を 味噌汁 ( みそしる )に入れたのを、やはりソバドヂョウと謂うそうであった。 その形 泥鰌 ( どじょう )に似たる 為 ( ため )なるべしと『佐渡方言集』にはある。 それもあるか知らぬがなおホウチョウという語の意味不明になった結果であろう。 三河の山村では是と同じものをソバボットリと称して、山神祭の欠くべからざる供物であった。 是もホウトウをそう 訛 ( なま )ったのである。 九州では豊後の或る部分に、小麦粉を練って味噌汁に落したものをホウチョウと謂ったことが、古川古松軒の『 西遊雑記 ( さいゆうざっき )』には見えている。 大友氏の時代から始まった食物で、文字は「鮑腸」と書くというのは、やはり泥鰌同然の考え過ぎであったと思う。 いずれにしても 生粉 ( なまこ )の 臼挽 ( うすひ )きが普及し、したがって粉の貯蔵が可能になるまでは、是は相応に面倒な調理法であった。 それが家々の補食の一種となり、また飲食店の商品ともなったのは、器械の進歩であると同時に、 晴 ( はれ )と 褻 ( け )の食事の混乱でもあったのである。 もし入用に臨んで新たに作る物であったならば、特に面倒をして生の穀物をはたき、またはわざわざ 炒 ( い )って 脆 ( もろ )くする必要はない。 最初から水に浸して柔かくして 搗 ( つ )けばよかったのである。 だから以前の晴の日の品がわりには、水を加えて粉末にする第三の搗きかたが、今よりもずっと多く行われていたのである。 石臼 ( いしうす )が入ってから後も、 大豆 ( だいず )などはネバシビキが多く、豆腐以外にもその用途はいろいろあった。 蕎麦だけは性来生粉が作りやすく、また香気を保つためにも水に浸さぬようであるが、その他の穀物の粉のままで食うもの以外は、大抵はネバシビキにしている。 挽臼を用いなかった時代はなおさらのことであったと思う。 その中でも米には昔から特にネバシ 搗 ( つ )きの必要のあったのは、臼に入れる水の加減をもって堅くまたは柔く、時にはやや液体に近い練粉までこしらえていたからで、 勿論 ( もちろん )一旦粉にしてから、水で薄めることも可能ではあるが、以前はもっぱら臼の中での仕事になっていた。 記録の上にはまだ見当らないが、私は是が一つの正式の米食法であったろうかと思っている。 現在伝わっているのは乳の不足な 赤子 ( あかご )などに、布で包んでしゃぶらせるくらいなもので、是にも地方的にいろいろの名がある。 これ以外には大抵は神霊の 供御 ( くご )とするだけで、もう人間は生のままの米の粉は食わないが、儀式の食品としてはかなりよく保存せられている。 もう忘れかかっているからその名称を採録しておかねばならぬ。 岐阜県の 海津 ( かいづ )郡などで、ナマコと謂っているのがこの米の汁の普通の名であったらしい。 淡路島 ( あわじしま )でシロトアゲというのもまたそれで、正月にこれを製して神棚や仏壇に、 ( かしわ )の葉をもって注ぎかける。 能登 ( のと )の 穴水 ( あなみず )地方では是を人根(ニンゴン?)と謂うそうである。 旧九月十五日の地蔵講の日に、七寸ほどに切った 藁 ( わら )を 膳 ( ぜん )に載せ、是に白米を 摺 ( す )って 糊状 ( のりじょう )にしたものを注いでいる。 これを人根というのは珍しく、またどうしてそういう事をするのかも私に 判 ( わか )らぬが、考えてみなければならぬと思っている。 福島県の 平 ( たいら )市附近の村では、同じものをオノリと謂っている。 是も九月秋収後の 幣束祭 ( へいそくさい )に、こしらえて餅とともに神に供える。 祭の 後 ( あと )には 烏 ( からす )が来てこれを食うことになっている。 烏に神供を投げ与える 風 ( ふう )は、正月に東北一般に行われているが、 処 ( ところ )によっては秋にも同じ事をするのである。 色の黒い男が 白足袋 ( しろたび )をはいているのを嘲って、「烏がオノリを踏んだような足をしている」などという 諺 ( ことわざ )も、この事実を知っている者には格別におかしいのである。 信州 川中島 ( かわなかじま )地方で二月八日に作るチウギ餅なども、餅とは 謂 ( い )っても至って柔かなものだと見えて、この日は子どもがそれを持って行って、 道祖神 ( どうそじん )の石像の顔に塗りつける。 土地により 甘酒地蔵 ( あまざけじぞう )もしくはモロミ地蔵と謂って、路傍の地蔵に甘酒やモロミを注ぎ掛け、臭くて鼻をつまむようだが、洗い落そうとすると 罰 ( ばち )が当るなどというのも、材料はちがうが同じ信仰であった。 羽後 ( うご )の神宮寺の道祖神を始とし、祭の日に神体に米の粉をふりかけるというなども、乾いた粉の得にくかった時代には、やはりこのオノリを注いだものと思う。 同じ習慣は東北地方、ことに旧南部領の 盆 ( ぼん )の墓祭りの時にもある。 やはり多くの他の食物とともに、この白色の粉を解いた液体を墓場の前と周囲にまき散らすので、土地ではこの行事をホカヒと謂っている。 ホカヒはもと食物容器の名、すなわち盆(瓮)という漢字の和語であった。 中部以西の盆の 精霊棚 ( しょうりょうだな )には、この白い米の水のかわりに、 鉢 ( はち )に水を入れたものを具え、ミソハギの枝をもって供物の上にふり掛け、または墓参の往復にもこれを路上に注ぐが、その水鉢の中へは 茄子 ( なす )や 豆 ( ささげ )などの細かく 刻 ( きざ )んだもののほかに、家によっては米粒を入れておく。 それを「水の 実 ( み )」とも、また「水の子」とも謂っている。 起こりは皆一つであろうと思う。 今では何故にそういうことをするのか、説明し得る者は一人も無いけれども、いずれも祖霊に供養するものであるからには、本来は我々の晴の日の食物で、人だけは 嗜好 ( しこう )が転じてこれを食わなくなっても、御先祖には前通りのものを進めていたわけで、すなわち日本の晴の食事にも、やはり時代の変化があったのである。 我々は容易に国固有のもの、もしくは昔通りの食物というものを、知っているとは言えないのである。 米を水に浸し柔げて 後 ( のち )に、 臼 ( うす )で粉に 搗 ( つ )くということの第二の便宜は、また 是 ( これ )をもって色々の物の形象を作り得る点にあった。 今日のいわゆるシンコ細工は、一旦米の粉を煮てから作るのだが、それでは油でも用いないと手にくっついて仕方がない。 生粉 ( なまこ )の水練りならば水を使うから、取扱いがずっと便利なのであった。 自分などはそれが 粢 ( しとぎ )というものの最初からの特徴であったと思っている。 日本人の食物の中で、最も古くから文献の上に見え、一方にはまた北海道の原住民の中にも、採用せられているのがシトギという語であるから、その使用は近世まであったと言ってよいのだが、存外に多くの日本人はこの語の意味内容、もしくは是と餅との関係を早く忘れてしまっている。 たまたまその語を用いる土地が有っても、是を用いるのはある限られたる場合だけである故に、それが一般的なる前代生活の残留破片であるとまでは心づかない。 何処 ( どこ )でもわが土地ばかりの方言と心得て、有りもせぬ標準語の対訳を見つけるに苦しんでいる。 その事自身がすでに驚くべき変遷であった。 シトギという語の現在も行われているのは、多くの場合には古い神社であり、祭礼の折にその語が現われてくる。 たとえば越前 敦賀 ( つるが )郡の東郷村の 諏訪 ( すわ )社では、シトギは三合三勺の米をもって作った三つの丸い餅であった。 餅とはいっても水練りの粉を固めたものだったろうと思う。 熊本県の北部で 棟上式 ( むねあげしき )の日に投げる餅だけをヒトギ、是などはすでにただの餅をそう謂っているのである。 能登 ( のと )の北川村の諏訪神社九月二十七日の祭に作るヒトミダンゴ、是もシトギの 訛音 ( かおん )らしいが、この方は今いう団子になっている。 東北では宮城県北部の村々でオシトネ、九月九日の節供に新米をもって製するもので、是は生の粉を水で固めたものであった。 岩手県では一般にこれをシットギと謂い、風の神送りの日に作って 藁苞 ( わらづと )に入れて 供 ( そな )え、または山の神祭の際に、田の 畔 ( くろ )に立てる 駒形 ( こまがた )の札に塗りつけた。 青森県の 八戸 ( はちのへ )地方で、同じく神に供えるナマストギも是である。 人は今日では煮るか焼くかして食う故に、とくにこれを生のシトギというのである。 生米を 噛 ( か )んで食う風習とも関係があって、以前は人間も生のままで食べていたのが、いつとなく 嗜好 ( しこう )が改まって、後には神仏に参らせるだけの食物のごとく考えられるに至ったのである。 だから 粢 ( しとぎ )という古い言葉は用いなくとも、その実物を作っている土地は今でも中々多い。 現在の名称の最も 弘 ( ひろ )く行われているのは、シロモチ・シラモチまたはシロコモチというのが是に該当する。 煮たり焼いたりしたのと比べると色がずっと白いからで、成人はめったに是を生では食べぬが、子どもは昔どおり珍しがってもらって食い、口の 端 ( はた )を真白にして喜んでいる。 伊勢の松阪あたりの山神祭りの飾り人形に、白餅喰いというのがあったことは、 本居 ( もとおり )先生の日記にも見えている。 秋の終りの神送りの日には、是は欠くべからざる 神供 ( じんく )であった。 三河の半島の或る町の祭には、小児が 烏 ( からす )の 啼声 ( なきごえ )を真似てこの白餅をもらって食う 風 ( ふう )があった。 それでこの日は彼らをカラスと呼んでいた。 前に述べた 岩城平 ( いわきたいら )の、烏のオノリと同じ風習から出ていると思う。 白餅という名は東海道の諸国から紀州まで、九州でも北岸の島々ではシラモチと謂い、 阿蘇 ( あそ )の山村ではシイラ餅と謂っているとともに、一方秋田県の 鹿角 ( かづの )地方などにもシロコダンゴという名がある。 分布のこのように古いのを見ると、この名称もおそらく新たに起こったものではないと思う。 信州は南北とも、一般にこれをカラコまたはオカラコと謂っている。 主として秋の感謝祭の日に 今年米 ( ことしごめ )を粉にして作るのだが、正月その他の 式日 ( しきじつ )にも用いることがある。 形は主として丸い 中高 ( なかだか )の、今謂う 鏡餅 ( かがみもち )のなりに作るので、或いはまたその名をオスガタとも呼んでいる。 オスガタは御姿、すなわち色々の物の形という意味かと思われる。 是を湯に入れ汁に投ずれば、単純なる我々の 煮団子 ( にだんご )であり、 鍋 ( なべ )で焼けば普通のオヤキすなわち 焼餅 ( やきもち )となるのだが、形をこしらえるには生のままの時に限るので、それで 粢 ( しとぎ )を 御姿 ( おすがた )と謂ったのかと思う。 後代技術が進んで 搗 ( つ )き抜きの団子を丸め、臼で 蒸米 ( むしごめ )を餅にすることができて、始めて我々の慣習は改まり、材料も従うて変化してきたのである。 滋賀県の 田舎 ( いなか )などでは、今でも餅団子をツクネモノと謂っている。 ツクネルとは 捏 ( こ )ねあげることで、現在の餅や団子はつくねはしないが、本来が生粉の 塑像 ( そぞう )であったために、今にその名前を継承しているのである。 ダンゴが上古以来の日本語でないことは誰でも知っているが、それならその前には是を何と謂ったかというと、それには答えることがむつかしいので、人によっては名称とともに、 支那 ( シナ )・ 天竺 ( てんじく )からでも入ってきた食物かのごとくに考えているが、一方に粢が国固有の古い食物である以上、是を外国から学ぶべき必要は有り得ない。 新たに採用したのは言葉だけで、それはたしかに丸いから団子と謂ったのであった。 信州の諏訪あたりでは、正月の餅花につける飾り団子をオマルと謂い、山梨でもカラコの白餅だけを、特にオダンスという村がある。 団子は古くはダンシと謂っていたのである。 東北へ行くと、今でもこれをダンスまたはダンシというから、その起原は想像することができる。 或いは「 壇供 ( だんく )」という漢字の音かとも考えられるようだが、この中間の団または 団子 ( だんす )という語があるために、是がもと仏教徒の用語に 出 ( い )で、丸く作った粢だけを意味していたことが 判 ( わか )ってくるのである。 ところが我々の作っていたシトギは、必ずしも常に団なるものとは限らなかった。 長くも 平 ( ひら )たくも節ごとの旧慣によって、色々の形が好まれていたのである。 たとえば田植終りの頃のサノボリの小麦団子は、中国地方では馬のセナカと称して、 鰹節 ( かつおぶし )を小さくしたような形であった。 盆の送り祭りの食物には、セナカアテと称して薄い平たいものを作り、もしくは鬼の舌などという楕円形のもの、 編笠焼 ( あみがさや )きと謂って笠の形をした焼餅を作る日もあった。 中部地方では二月 涅槃 ( ねはん )の日にヤセウマという長い団子をこしらえ、または同じ月にオネヂと謂うものを作る日もあったが、是も後には 捻 ( ねじ )り団子には限らず、 蕪 ( かぶ )や 胡蘿蔔 ( にんじん )等の野菜類まで、色々と形を似せて美しく彩色した。 香川県には有名な 八朔 ( はっさく )の 獅子駒 ( ししごま )がある。 是も現在は米の粉をもって、見事な動物の形を作り並べて見せるので、この風習は中国地方に及び、これをタノモ人形などといって、男女の姿に似せたものさえ作った。 尾張・三河の方面では三月の 雛 ( ひな )の節供の日に、やはり米の団子をもって 鯛 ( たい )や 鶴亀 ( つるかめ )・ 七福神 ( しちふくじん )までも製作した。 もうこうなると工芸と言おうよりも美術で、専門家の手腕を必要としたのであるが、しかし日本の民芸は発達している。 民間にはしばしば無名の技術家があって、たった一日か二日で食ってしまう物に、かような手の込んだ製作を施して、少数の見物人を感動させていたのである。 しかしそれも是も、すべて水で練った生の穀粉の彫塑であったからできたのである。 是がもし蒸した粉や穀粒であったら、つくね上げることは相応に困難であったろう。 私たちが少年の頃には、酒屋の職人たちが酒の仕込みの日に、蒸した白米を 釜 ( かま )からつかみ出して、ヒネリ餅というものを 拵 ( こしら )えていた。 普通には 扁平 ( へんぺい )な 煎餅 ( せんべい )のようなものしかできなかったが、巧者な 庫男 ( くらおとこ )になると是で 瓢箪 ( ひょうたん )や 松茸 ( まつたけ )や、時としてはまた人形なども作り上げた。 蒸米は冷えるとすぐに固くなるので、熱いうちに手を火ぶくれにしてこんな技術を施したのであった。 シンコに比べると餅の方は殊に細工を施し得る間が短い。 故に今では 丸餅 ( まるもち )や 熨斗餅 ( のしもち )などの、至って単純な物しかできなくなったのである。 是が生粉であるならばゆっくりといかなる形の物をでもつくね上げ得たのは当然である。 問題はいわゆるオスガタを作る手段よりも、いかにしてそういう色々の物の形を、現わさなければならぬと考えたかの、動機 如何 ( いかん )という点に存在する。 注意をして見ると我々の晴の日の食物は、単に是がために時と労とを費しただけでなく、その形態にも幾通りかの計画が有り意匠があった。 一つの顕著な例は三月の桃節供に、必ず 菱形 ( ひしがた )の餅を飾ることである。 是を 桝形 ( ますがた )の餅とも称して、奥州では正月に人の家に贈る餅の、 定 ( き )まった一つの形となっていた。 出羽の方の正月には、昔からヲカノモチというものが、家族一人に一つずつ作って 歳棚 ( としだな )に飾られていた。 是は楕円形で中程に指で 窪 ( くぼ )みを附けたものであるという。 東京でも婚姻の祝に配る鳥の子または 鶴 ( つる )の 子 ( こ )というのが、一部分是と似ている。 つまりそれぞれの機会に対して特殊の形というものがあって守られたのである。 その中でも特に私たちの注意しているのは、五月 端午 ( たんご )の節供に作られる色々の 巻餅 ( まきもち )が、必ず上を 尖 ( とが )らせた三角形に結ばれたことである。 是なども最初は生粉の間に形をきめ、それを湯に入れて煮て引き上げて食ったのである。 それと同じ形が年の暮の供物、 御霊 ( みたま )の 飯 ( めし )というものにも附いてまわっている。 是は米粒であるがやはり 笹 ( ささ )の葉などで三角形に包み、蒸して食うようにしたのである。 葉に包まぬ場合には握り飯だが、是もこしらえる手つきがきまっていて、必ず三角に結ぶことになっていた。 それを盆と暮とに御霊に供えている土地も多いのである。 私の一つの想像では、鏡餅は 円 ( まる )いという点ばかり問題にされているが、是が 上尖 ( うえとが )りにできるだけ高く重ねようとしていた点は、五月の 巻餅 ( まきもち )や 粽 ( ちまき )の円錐形と、同じ動機に出ているものではないか。 すなわち是を人間体内の最も主要なる一臓器と、わざわざ似せて作り上げたところに、是を儀式の日に食うという意義があったのではなかったか。

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あさぎーにょの年齢や身長は?歌/have anicedayやカラコンについて調べてみた!

あさ ぎー にょ 年齢

youtuberさんって、 「いったいいくつなんだろ? 」 て思う事多いですが、 あさぎーにょさんの 年齢は25歳。 平成30年10月現在 1993年の、 10月6日生まれです。 他参考までに、 動画等で喋っていた、 プロフィールをまとめてみましたよ〜。 本名:大西麻生 おおにし・あさぎ 出身地:兵庫県 マイブーム:指パッチン ストレス発散法:大きな声で歌う 好きな有名人:菅田将輝 尊敬する歌手:高橋優 好きなアイス:ハーゲンダッツ 好きな映画:時をかける少女 好きなジブリ映画:魔女の宅急便 こだわりのモノ:レザーアイテム 異性の好きな仕草:最後のポン 物を置いてポンと触る仕草 髪を染め出した時期:高校卒業してすぐ 昔の部活:中高6年間硬式テニス部 ピアスの数:4つ カラコン:LIL MOONクリームグレージュ クリエイターさんの多くが、 どこかの事務所に所属していますが、 あさぎーにょさんは事務所には所属していません。 大学は1年で退学しています。 好きなタイプは「 素直な人」。 今は365日、ほぼ毎日パソコンの前で、 動画の編集作業に追われているそうな。 その為いつも一緒なのは、 彼氏でなく 重度の肩こり。 恋愛に関しては、 以前Twitterでこんなことも呟いています。 大学を1年で辞めた理由は、 自分が輝ける道を考えてのこと…だそうです。 あさぎーにょの職業って? 続いて 職業に関してですが、 「クリエイター」というのでしょうね。 映像制作、楽曲制作、CM制作、 イラスト制作、モデル、タレント、プロデュース。 と興味があること全てに、 全力でチャレンジされています。 あさぎーにょさんが、 物心ついた時から、 ずーっと抱いていた夢は「歌手」。 19歳の頃に上京してきたのも、 歌手になるという目的の為であり、 そこからはライブや路上、 オーディション参加と。 歌手になる為の活動も、 毎日必死に行なっていたそうです。 「うちの事、うちの歌を、 たくさんの人に発信したい」 という気持ちからyoutubeを始めたと、 以前動画で話されていますが、 当時のパソコンスキルは、 macのスイッチのいれ方さえ危ういっていうんですから、 ちょっとヤバいレベルです。 うちの60歳の母ですら、 スイッチいれるくらいは余裕、 なんならワード使えますもの。 楽しそうな人を見ていると、 こっちまで幸せな気分になれるし、 何か自分もチャレンジしてみようかな? と、 前向きな気持ちになれますよね〜。 動画を作るって楽しいのはもちろん、 色々大変なこともあると思いますが、 そんな中でも沢山の動画を出してくれて、 感謝しかございません。 instagram. ということで、 40何キロかは秘密でしたー まあそうよね、 そうなるよね。 でも166センチで、 40キロ台って細いよな。 ゾゾスーツを着て、 ゾゾ娘になった動画もあったけど、 スタイルが素晴らしく良い。 ちなみに過去にしたダイエットで、 一番効果があったのは、 ホットヨガだそうです。 パクチーとかの癖が強い食べ物も、 好き嫌いってぱきっと別れますもんね。 逆に合あさぎーにょさんを好きな人は、 心底ハマっていると思います。 私も大大大好きです。 あさぎーにょさんもその辺は、 「あぁこういう風に受け取るんだな〜」 と特に気にしていないようですが、 そういうのは気にしても、 どうにもならないことですもんね。 AKBの歌にも確か、 アンチがいるからこそ伸し上がれる的な、 そんな歌があったような気がします。 今は空前のパクチーブーム。 パクチー同様、 空前のあさぎーにょブームが起こる事を、 ファンとして楽しみにしとりまーす。

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あさぎーにょの本名・年齢などプロフィール公開!出身の大学と人気の歌カバーとは?

あさ ぎー にょ 年齢

活動期間 2016年4月〜 ジャンル へんてこポップ 登録者数 約69万人 2020年3月現在 総再生回数 約2億回 (2020年3月現在) 事務所() 無所属 キャッチフレーズ へんてこポップ あさぎーにょは日本のクリエイティブアーティスト、。 ニックネームはぎーにょちゃん、ぎにょちゃん、あさぎちゃん、ぎにょ、あさちゃんなど。 あさぎは本名で由来は特にないと動画で母親(ママぎーにょ)が公言 している。 大学中退後、歌手を目指し上京するも迷いを感じ始める。 そんな中始めたYouTubeに楽しさややりたい事を見つけ2016年4月から毎日投稿を開始。 現在ではクリエイティブアーティストとして『へんてこポップ』をテーマに映像制作、楽曲制作、CM制作、モデル活動、タレント活動、プロデュース活動、イラスト制作をしている。 松蔭高等学校出身。 父親は元お笑い芸人の大西幸仁である。 活動 [ ]• 2016年4月〜2017年7月毎日投稿• 2017年7月30日オリジナルソング「miracle」MVを投稿以降、オリジナルソングを全3曲制作・投稿• 2017年11月30日から「勝手にCM作ってみた」を度々投稿、自身の好きな物やお菓子など様々な物のCMを作成。 2018年11月現在、作品数は10作品に及ぶ。 2018年2月7日カバーソング動画を投稿。 最新の曲や自身の好きな曲、リクエストの多かった曲など投稿している。 2018年11月現在では20作品に及ぶ。 2018年10月18日feat. SonyMusicAuditionグランプリ獲得• 2019年8月29日あさぎーにょ公式ファンアプリ(へんてこポップ)をリリース• 2019年9月25日から「すったび」のチャンネルを開設。 YouTube、TikTok、Instagramなど様々なSNSでインフルエンサーとして影響力を持つ「」と共に旅行動画を投稿している。 登録者数は約4万人、総再生回数は約290万回である。 2020年1月現在• Japan ラインアップコンテストにて4組のファイナリストの中から優勝し、2019年12月4日に幕張メッセで開催されたYouTube Fan Fest2019 YTFF に出演した。 メディア [ ]• 2018年2月25日楽天スーパーポイントスクリーン• 2018年3月24日「古着女子」トークショー 、ステッカーを制作・配布• 『mer(2018年8月号)』• 2018年6月30日TikTok楽曲提供、CM制作「投げキッス運動」• 2018年7月21日東京MX「恋に乾杯」出演• 2018年9月17日発売mer• 2018年11月5日グリコポッキーTikTok楽曲制作• 2018年11月13日ハーゲンダッツMMV 脚注 [ ] [].

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